尾崎豊

提供: 久米田康治ワールド Wikiサイト
ナビゲーションに移動 検索に移動


尾崎豊(おざき ゆたか)[編集]

~本名 ~生年月日 ~没年月日 ~出身地 ~職業
尾崎豊 1965年11月29日 1992年4月25日 東京都 シンガーソングライター


歌手。若者の孤独と挫折を歌い当時の若年層に熱狂的に支持された。人気絶頂のなかで急逝したこともあり、伝説的ロックシンガーとしていまもなお注目されている。
主な代表作は『15の夜』『卒業』『I LOVE YOU』『OH MY LITTLE GIRL』など。

経歴[編集]

ギターとの出会い[編集]

1965年11月29日、東京都練馬区生まれ。
父親が防衛庁職員で陸上自衛隊練馬駐屯地に勤務していたが、小学五年生のとき父親の朝霞駐屯地への転属に伴い埼玉県朝霞市へ転居。しかし、転校生という理由で同級生からいじめを受け不登校になった。この時期にギターに出会ったことが後の人生にも影響している。埼玉県はよほど本人には合わなかったらしく、中学校は本人の強い希望で練馬区無いへ越境通学し、生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたという。

音楽活動[編集]

青山学院高等部に進学してから音楽活動を始める。初ステージは1980年の原宿音楽祭に出場して披露した『町の風景』[1]であった。その後1982年10月11日にCBSソニー主催のオーディション『CBS SONY Sound Development Audition 1982』にてオーディションに合格。辻仁成と共に1982年の最優秀アーティスト賞に選出される。


尾崎が本格的な音楽活動をする契機となったのは学業トラブルであった。それまでも喫煙やオートバイでの事故で幾度か停学処分を受けていたが、高校3年生のときに渋谷で同級生達と飲酒した際にクラスの女子生徒が急性アルコール中毒で搬送され、さらに大学生のグループと乱闘騒ぎを起こしてしまう。このことにより尾崎は無期限停学処分を下され、尾崎は2年次に続き3年次にも文化祭直前に停学処分を受けてしまっため、自らの音楽活動を披露する機会のひとつである文化祭に出られなくなってしまった。この悔しさから本格的な音楽活動をする契機のひとつとなり、停学期間中に1stアルバム『十七歳の地図』を制作に専念することとなった。
無期限処分こそ解除されたものの出席日数が足りず留年が決定的となったことから自主退学し本格的に歌手を目指すこととなった。1983年12月1日にアルバム『十七歳の地図』、シングル「15の夜」にてデビュー。1984年1月25日に青山学院高等部を退学。3月15日に新宿ルイードにてデビュー後初ライブを行う。皮肉にも青山学院高等部の卒業式の当日であった。


カリスマ[編集]

デビュー当初はレコード会社からはそれほど期待されていたわけではなかったためプロモーション活動などの支援が無い状態で、大手メディアに取り上げられることもなかった。そのため1stアルバム『十七歳の地図』はセールスが伸び悩んだ。しかし音楽評論家からは大絶賛され、音楽雑誌では早くも特集が組まれてるなど注目されていた。中には10ページ以上尾崎の記事や写真で組まれた特集もあったという。やがて耳の肥えた音楽ファンから注目され、次第に口コミで若者達からカリスマ的な人気を得ていく。3rdシングル「卒業」はオリコンチャート20位、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録し、社会に対する疑問や反抗をつづった歌詞は当時の10代を中心に熱烈に支持された。

迷走[編集]

尾崎が注目された1980年代中ごろは、史上空前の好景気に日本中が酔いしれていたバブル期に差し掛かる時期であり、浮き足立っていた大人をよそに子供たちもまた校内暴力やいじめ問題、10代の喫煙飲酒が横行していた時代であった。このためやや反社会的な歌詞により10代に熱烈に支持された尾崎もまた、マスメディアからは「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとも呼ばれ、一種の社会現象と捉えられていた。しかし尾崎本人はこうした呼称を非常に嫌っていたという。
あくまで同年代の代弁者として一世を風靡した尾崎であったが、20歳になるとその方向性を見失っていく。1986年1月のライブ後に突然、無期限活動休止を宣言し単身渡米するも、新しい音楽の方向性を生み出せないまま半年後に帰国する。さらにはレコード会社移籍により音楽活動をともにしてきたメンバーとも決別、そんな失意のなか、覚醒剤取締法違反容疑で逮捕される。

突然の最期[編集]

復帰後も精力的に創作活動に打ちこみつつ1990年に独立したが、個人事務所の社長も兼務する過密スケジュールによる疲労、過度の飲酒などで体調を崩す。


1992年4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて半裸の泥酔状態で発見され、不審者と思われて警察に通報された。その後病院に運ばれ診察を受けた際には危険な状態である可能性を指摘されたものの自宅のマンションに帰る選択をしてしまう。その後自宅で呼吸停止状態となり再び救急搬送、肺水腫により急死した。
死亡にいたる経緯については、覚せい剤の過剰服用とも覚醒剤断薬後の再使用による反応とも推測されている。一方で、遺体には打撲傷などの不可解な点もあるため他殺説を主張する者もおり、いまだ真相は定かでない。

尾崎ハウス[編集]

上述の足立区千住河原町の民家のこと。
尾崎の死去後、連日詰め掛け涙を流すファンに対して、家主の厚意により空き地に隣接する自宅1階の6畳間が開放された。家主も尾崎の歌を覚えてファンと一緒に歌うようになったという。いつしかこの建物が「尾崎ハウス」と呼ばれるようになり、ファンの交流の場とされてきた。家主は「みんな来ちゃってるし、引き下がれないよ」と当面は存続の意向を示していたが、没後20年が経過し、建物も築65年と老朽化。家主も「このままだと一生つきあわなければならない」と息子たちに諭され、建て替えすることとなった。


建物は2011年10月に取り壊しになった。以降はファン開放は行わない方針。

久米田康治との関連[編集]

かってに改蔵 作品中にて[編集]

第77話第150話第200話などで度々ネタとして出てきている。

じょしらく 作中にて[編集]

『卒業』(八日目)『15の夜』(十四日目)の歌詞ネタあり。

さよなら絶望先生 作品中にて[編集]

78話で登場する「伝説のカリスマロッカー OZEKI」のモデル。尾崎の発見現場となった「尾崎ハウス」のネタもある。
糸色交がファン。

また『15の夜』の歌詞「盗んだバイクで走り出す」が度々ネタとして出てくる。


『せっかち伯爵と時間どろぼう』作品中にて[編集]

23話にて「尾崎ハウス」が取り上げられた。

  1. 後に改作され、ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている。なお、このときの優勝者は後にサザンオールスターズやMr.Childrenのプロデューサーとなった小林武史であった。