芥川龍之介

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芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)[編集]

小説家。東京市京橋区出身。
代表作は『羅生門』『蜘蛛の糸』『杜子春』『河童』等。主に短編小説で多くの名作を残した。

経歴[編集]

1892年3月1日に乳業店を営む新原家の長男として生まれる。
生後間もなく実母が精神を病んだことから母の実家の芥川家に預けられ、後に養子縁組して正式に芥川姓を名乗る。本名は龍之助だが、本人は「助」の字を嫌っていたらしい。

1914年、東京帝国大学英文科在学中に友人の菊池寛、久米正雄らと共に文芸同人誌『新思潮』を刊行し、処女作『老年』を発表。翌年には文学誌に『羅生門』を発表。これが大きく評価され、学友の紹介で夏目漱石に弟子入りする。
その翌年に発表した『鼻』が漱石から絶賛を受け、大学を二位の成績で卒業。その才から将来を嘱望された文士として注目の存在となる。
その後海軍の英語教官を経て大阪朝日新聞社に入社し、寄稿に専念する。

1921年に海外視察員として中国を訪れ、『上海遊記』などの紀行文を発表したが、この頃から次第に心身を病み、療養生活に入りつつ創作を続ける。この頃から次第に人生や生死に深く向き合った私小説的な作風に変化していく。
1926年には胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が悪化し療養。その翌年には義兄の自殺などで心労が重なる中、自身の連載『文芸的な、あまりに文芸的な』で谷崎潤一郎と文学的論争を繰り広げる(ただし両者は個人的には仲が悪かったわけではない)。

1927年7月24日、「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と遺書を残し、大量の睡眠薬を飲んで自殺。
死の8年後、友人で文芸春秋社主となった菊池寛が芥川の名を冠した新人文芸賞「芥川賞」を創設した。

作風[編集]

学生時代から古典や西洋文学の研究に勤しんでおり、簡潔で無駄のない文脈と構成、寓意性を帯びつつも生々しく繊細な表現はデビューした20代前半の頃から高い完成度にあり、数多く執筆した短編小説は太宰治ら後代の作家たちにも大きな影響を与えており、現在も名作として広く読み継がれている。
一方で処女作の『老年』、商業デビュー作の『羅生門』、初期作品の中でも評価の高い『鼻』『芋粥』など、人間と世間に蔓延る不条理やネガティブ要素を主題に扱った作品が多い。初期作品の頃から鮮明に描かれている「願望と幸福の乖離」と、その解答を明確にしていない傾向はある種の絶望的世界観を形成しており、晩年の頃の作品で己の人生や死生観に触れるようになった作風の変化にも影を落としている。

久米田康治との関連[編集]

久米田先生は、彼の作品のタイトルや作中の一節からサブタイトルをよくつけている。