藤子不二雄

提供: 久米田康治ワールド Wikiサイト
ナビゲーションに移動 検索に移動


藤子不二雄(ふじこ ふじお)[編集]

漫画家の藤本弘藤子・F・不二雄)と安孫子素雄藤子不二雄A)のコンビのペンネーム。

略歴[編集]

二人は小学生時代に知り合い、以後二人で独自に漫画同人誌などを執筆し、漫画家を志す。この際に一人より二人で協同して取り組むほうが力になると考え、合作スタイルで執筆するようになる。
コンビ結成時に二人が尊敬していた手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」と名乗っていたが、それでは余りに露骨過ぎて手塚先生にも失礼ではないかと考え、手塚の足元にも及ばぬ意趣で「足塚不二雄」と改名した。 この時期に書かれた貸本漫画や同人誌は現存数もごくわずかな貴重本となっており、高額なプレミアがついている。

高校卒業後に二人は漫画家を目指して上京。このときに二人の苗字を合わせて「藤子」に改名している。この時期の二人の青春時代は藤子不二雄Aの執筆した『まんが道』や『トキワ荘青春日記』などに詳しく描かれている。
上京後は手塚治虫ら漫画黎明期作家の梁山泊として知られるトキワ荘に住み、執筆活動を開始。 短期間だが手塚の最初期のアシスタントを務めたこともある。

1964年に同じトキワ荘メンバーの石森章太郎[1]赤塚不二夫、つのだじろう、鈴木伸一(小池さんのモデル)らとスタジオ・ゼロを結成。メンバーのサポートを受けて執筆した『オバケのQ太郎』がヒット。人気作家としての地位を確立してからの二人は独自の方向性を追求し、個別執筆に移行していく。別々に作品を執筆しながらもそれぞれが藤子不二雄の名義で発表するという形式を取っていた。

1988年、互いの作風の違いや作品の権利関係の都合などからコンビ解消を表明。それまで「藤子不二雄」名義で発表されていた諸作品を個別名義に変更している。コンビ解消後も製作スタジオは隣同士のビルであり、個人的には互いに親しい交流が続いていた。
自画像では藤本が長身でスマート、安孫子がずんぐり体型、趣向においては藤本はじっくりと単独で取り組むことが多くアカデミックな分野にも詳しく、安孫子は社交的かつ多趣味で娯楽にも詳しく、食生活は藤本が肉類を好み、安孫子は実家が寺だった生い立ちから肉や魚は殆ど食べないなど、お互いに人となりはかなり対称的でもある[2]

主な作品と作品発表年[編集]

  • UTOPIA 最後の世界大戦:1953年(共作=「足塚不二雄」名義)
  • 天使の玉ちゃん:1951~1952年 (共作)
  • ある日本人留学生からのローマ便り:1954年 (共作)
  • 海の王子:1959~1964年 (共作)
  • 星の子ガン:1961年 (共作)
  • 銀河船長:1961年~1962年(共作)
  • ビッグ・1:1962年(共作)
  • オバケのQ太郎:1965~1974年 (共作)
  • 名犬タンタン:1965~1968年 (共作)
  • チンタラ神ちゃん:1967~1968年 (共作)
  • シスコン王子:1968年~1969年(安孫子)
  • ビリ犬:1969年(安孫子)
  • 仙べえ:1971~1972年 (共作)
  • てぶくろてっちゃん:1960~1963年、1966年 (藤本)
  • 進めロボケット:1962~1965年 (藤本)
  • パーマン:1963~1965年、1983年~1986年(藤本) 
  • 忍者ハットリくん:1964~1968年、1981~1988年(安孫子)
  • 怪物くん:1965年~1969年、1967年~1969年、1980~1982年(安孫子)
  • 21エモン:1968~1969年 (藤本)
  • ウメ星デンカ:1968~1970年 (藤本)
  • 笑ゥせぇるすまんシリーズ:1968~1971年、1990~1995年、1996~2000年(安孫子)
  • モジャ公:1969~1970年 (藤本)
  • ドラえもん:1970~1996年 (藤本)
  • 大長編ドラえもんシリーズ:1980~1996年 (藤本)
  • ポコニャン:1970~1978年 (藤本)
  • ドビンソン漂流記:1971~1972年 (藤本)
  • 魔太郎がくる!!:1972~1975年(安孫子)
  • ジャングル黒べえ:1973年 (藤本)
  • プロゴルファー猿:1974~1980年、1982~1988年(安孫子)
  • ぞうくんとりすちゃん:1974年(絵本作品=藤本)
  • キテレツ大百科:1974~1977年 (藤本)
  • みきおとミキオ:1974~1975年 (藤本)
  • モッコロくん:1974~1975年 (藤本)
  • バケルくん:1974~1976年 (藤本)
  • 4じげんぼうPポコ:1975~1976年 (藤本)
  • 二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史[3]:1975年~1976年(共作)
  • バウバウ大臣:1976年 (藤本)
  • きゃぷてんボン:1976年 (藤本)
  • Uボー:1976~1979年 (藤本)
  • まんが道:1977~1982年(我孫子)
  • エスパー魔美:1977~1982年 (藤本)
  • 中年スーパーマン左江内氏:1977~1978年(藤本)
  • 少年時代:1978~1979年(柏原兵三原作・作画:安孫子)
  • T・Pぼん(タイムパトロールぼん):1978~1979年、1980~1983年、1984~1986年(藤本)
  • ミラ・クル・1:1979年 (藤本)
  • 宙ポコ:1983年 (藤本)
  • 宙犬トッピ:1984年 (藤本)
  • ウルトラB:1984~1989年(安孫子)
  • チンプイ:1985~1991年 (藤本)
  • パラソルへんべえ:1989年~1991年(安孫子)

久米田康治との関連[編集]

久米田康治との関係[編集]

久米田先生は藤子作品のファンであり、自作品の中でも度々ネタに活用している。
また、「漫画家・久米田康治はペンネームであり、作品は久本康米田治の合作である」という設定の元ネタも、「コンビネームとしての藤子不二雄」を強く意識したものになっている。

  1. のちの石ノ森章太郎。
  2. この特徴は藤子Fのアシスタントだった吉田忠が描いた『藤子不二雄物語 ハムサラダくん』において、肉が好きな藤本がモデルの「ハムくん」と菜食の安孫子をモデルにした「サラダくん」として反映されている。
  3. 掲載当時のタイトルは『僕はこの歳になって、まだ少年漫画を描いている』だった。文章は大方を安孫子が書き、各章の中書きを藤本が書いている。