原辰徳

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原辰徳(はら たつのり)[編集]

生年月日 出身地 職業
1958年7月22日 福岡県大牟田市生まれ
神奈川県相模原市育ち
プロ野球選手→プロ野球監督


略歴[編集]

愛称は「若大将」。
現役時代には、長嶋茂雄・王貞治の次代を担う巨人の四番打者として活躍した。また本塁打王には縁がなかったものの通算382本塁打を記録し、1980年代の巨人軍を支えた。

第2回WBC日本代表監督として日本代表を二大会連続世界一に導いている。

プロ入りまで[編集]

福岡県大牟田市生まれ。
高校野球の指導者であった父・原貢による英才教育を受け、1974年東海大相模高校に入学。東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場したほか、1975年の春の甲子園にも出場し準優勝。高校通算本塁打は43本。当時から「原フィーバー」とよばれる熱狂的な人気を誇っていた。
高校卒業時にはプロ入りを拒否し、東海大学に進学。首都大学リーグでは原目当てのファンが殺到するほど注目度を集めた。大学通算では2回の三冠王をはじめ、MVPを3回、ベストナインを7回獲得する活躍を見せ「長嶋茂雄の再来」との期待を寄せられるようになった。

プロ野球選手として[編集]

1981年読売ジャイアンツに入団。藤田元司監督が4球団競合の末にクジを引き当てた。
初年度からレギュラーに定着し、22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録するなど主力選手として活躍した。1983年には、打率.302、32本塁打103打点の成績で打点王を獲得し巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。
1986年9月24日、広島東洋カープの津田恒実投手の直球を打った際に左手首を骨折。この骨折は原本人が「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に述懐するほどの影響があり、これ以降絶頂時の感覚が戻ることはなかったという。この負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされ、さらにはチーム事情などにより内外野を転々とする度重なる守備変更(もっともこれは守備の負担を減らすためでもあったのだが)の影響も重なって以降の打撃成績は伸び悩むこととなる。
1995年現役引退。当初引退試合は予定されていなかった[1]が、当時、引き分け試合は後日再試合するルールであったため、最終戦で本拠地開催が実現、セレモニーが行われることになった。引退セレモニーで「本日、私の夢は終わりますが、私の夢には続きがあります」と将来の監督就任を期待させる台詞を遺した。

監督として[編集]

現役引退後、NHK野球解説者、巨人打撃コーチを経て2002年に勇退を表明した長嶋監督の後任として巨人監督に就任。1年目から「ジャイアンツ愛」を掲げチーム改革を図る。選手の起用方針の変更や全選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分ける采配などで就任1年目にしてリーグ優勝、さらに日本シリーズでは西武ライオンズ相手に4連勝で日本一となった。どころが翌年は不動の4番打者であった松井秀喜のメジャーリーグ挑戦による退団や、相次ぐ主力選手の怪我による離脱で戦力が不足し3位の成績に終わり、さらには球団の内紛に巻き込まれて解任されてしまう。


2005年末、堀内恒夫監督がチームの成績不振により引責辞任したため、後任として監督に再任される。2006年シーズンは開幕ダッシュには成功したが、弱体化した投手力に加え主力選手の相次ぐ故障もあって、交流戦中盤から8連敗・10連敗・9連敗などの大型連敗を喫してしまい8月にはついに最下位に転落。最終成績では最下位こそ免れたものの4位に終わる。シーズンオフに大規模な補強を行う一方で、小久保裕紀、仁志敏久、桑田真澄、工藤公康ら長年チームを支えた功労者がチームを去ることになった。この際の「もう、いい選手はいらない」など一連の挑発的発言が物議をかもした。
それでも翌2007年には投手陣を再建し野手の大型補強で得点力を向上させ、大接戦の末にチームをペナントレース優勝へと導いた。しかし、この年からセリーグにも導入されたクライマックスシリーズで2位の中日ドラゴンズに破れ、日本シリーズに出場することができなかった。
2008年、2009年とリーグ優勝し1965年~1973年のV9時代以来のリーグ3連覇を果たした。2012年~2014年には再びリーグ3連覇を達成、監督11年間で7度チームを優勝に導いている。長嶋監督時代の大砲巨砲主義時代なかったような機動力を積極的に使う戦術で、監督としての優れた手腕を発揮、長期政権を築いた。


この間、2009年3月開催の第2回ワールドベースボールクラシックでは日本代表チーム監督に就任。前年の北京オリンピック野球の惨敗を受け監督人事が難航していたことから、火中の栗を拾ったとされたが、日本を二大会連続の世界一へと導き、監督としての評価をさらに高めることとなった。


しかし、リーグ連覇こそしたものの、2013年は日本シリーズ敗戦、2014年はクライマックスシリーズ敗退、2015年はリーグ2位とチーム力低下による成績の下降から、チーム再建を若い世代に託すとして、監督を高橋由伸に譲り勇退。特別顧問に就任する事となった。

ところが、2016~18年の高橋由伸監督時代に連敗記録の更新、CS連続出場の停止、所属選手の不祥事など問題が頻発した[2]ことから、高橋が責任をとる形で辞任。2019年から3度目の監督就任となった。
2019年、2020年と連続でリーグ優勝したものの、日本シリーズではどちらも福岡ソフトバンクホークスに全敗、主力の高齢化もあり2021年は3位に終わる。全権監督として契約を継続するも、2022年・2023年と4位に終わり、球団初の同一監督による2年連続Bクラスという結果から、責任を取る形で契約途中での退任となった。

久米田康治との関連[編集]

久米田先生の作品には何度も取り上げられている。

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

47話にて「私の夢には続きがあります」が登場。
巨人がセ・リーグの最下位争いをしていた2006年夏には、58話『限りなく惨敗に近いブルー』に「ジャイアンツ愛が期待はずれ」として羅列ネタに登場した。
また、挑発的発言について37話では「江藤の穴を埋めてくれる選手」発言が取り上げられているほか、59話では、「監督から避けられし選手」として仁志敏久選手との確執が取り上げられた。 また、久米田先生の『太陽の戦士ポカポカ』時代の自虐ネタ(後述)が174話『過多たたき』に取り上げられ、さらに当該話がアニメ化された懺・第09話『尼になった急場/ほか』では、さらに原の引退との関連性が強調された演出となった。

かってに改蔵 作品内にて[編集]

第197話『ガンバルンバ♪』に「原監督、HR打った選手にグーを突き出したりして選手がついていけずにガンバリすぎ!」の羅列ネタ。

太陽の戦士ポカポカ 作品内にて[編集]

1996年に『太陽の戦士ポカポカ』が週刊少年サンデーにて連載開始した際のキャッチコピーは、1995年をもって現役引退した原辰徳が「若大将」と呼ばれていたことと、上述の「私の夢には続きがあります」のセリフにちなんで「下ネタ王子』改め『夢大将'96』」というものであった。

行け!!南国アイスホッケー部作品内にて[編集]

作品内に拒人軍(あるいは拒チン軍)の4番打者・マラたつのりなる人物が何度か登場したことがあるほか、チャンスに弱い四番打者・ホラたつのり選手が登場し、目標は3割40本と主張していた。いずれも原辰徳との関係は不明である。

  1. 巨人は当時のセ・リーグではドーム球場をホームグラウンドにする唯一の球団であったためゲームの日程他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから、日程的余裕がなかった
  2. ただし、選手の不祥事は高橋の監督就任以前から行われていた賭博行為や他球団からの移籍選手が起こした(移籍前の球団でも行っていた)窃盗行為である。チームの成績不振も、戦力を他球団からの補強中心でそろえ、生え抜きの育成を疎かにしたために、補強組の不振がそのまま成績に繋がったものであり、原やそれ以前の首脳部・フロントの失態のツケを高橋が押しつけられた、という意見も多い