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野村克也(のむら かつや)


生年月日出身地職業
1935年6月29日京都府竹野郡網野町
(現:京丹後市)
プロ野球選手→プロ野球監督


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略歴

東北楽天ゴールデンイーグルス元監督で、2006年から4年間務めた。愛称は「ノムさん」。
妻はサッチーことタレントの野村沙知代(再婚)。息子は読売ジャイアンツバッテリーコーチの野村克則。 毎試合後のインタビューで勝っても負けても行うマスコミ向けのネガティブなインタビューである「野村監督のボヤキ」は、もはや名物となっている。

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プロ入りまで

京都府北部の貧しい家に生まれる。看護士だった母が病弱であったため、小学校一年のときから兄とともに毎日新聞配達をして家計を助けていた。中学2年のときに野球部に入り、次第に周囲から注目されるようになる。中学卒業後は働くように母から言われたが、克也の才能を見抜いた兄が自らの大学受験を断念してまで京都府立峰山高等学校に進学させた。高校でも母に内緒で野球部に入部するがあえなく発覚。退部するよう諭されるが、野村の才能を評価した顧問の取り計らいにより野球を続けることとなる。しかし峰山高野球部が大変弱かったため、全くの無名選手のままであった。

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プロ野球選手として

1954年、南海ホークスにテスト生として入団。高校の顧問が南海・鶴岡一人(かずんど)監督に推薦の手紙を送っていたためだが、鶴岡はまったく期待しておらず、選手としてではなくブルペン捕手として使い捨てるつもりで入団させたという。
1年目は9試合で11打数無安打、シーズンオフには解雇の予定であったが、奇しくも南海の正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで捕手不足となり、一転残留が決定する。
選手として花開いたのは入団3年目に正捕手に定着してから。投手の癖を見抜く技術により打撃力が格段に向上し、1965年には戦後初めての三冠王に輝く。首位打者1回・本塁打王9回・打点王7回の打撃タイトルを獲得し、南海の黄金時代を支えた。

1970年からは、選手に加えて監督も兼任するプレーイングマネージャーとして、「四番」「捕手」「監督」の三役をこなす。1973年には弱体化していたチームを立て直しリーグ優勝を果たし、選手としても打率.309、28本塁打、96打点という驚異的な成績を残し、MVPにも選ばれた。しかし1977年シーズン中に突然解任*1される。

以降、「生涯一捕手」を標榜し、ロッテオリオンズ・西武ライオンズと渡り歩き1980年に現役引退。プロ実働26年、通算本塁打数657本・通算安打数2901本は、ともにプロ野球歴代2位であり、三冠王や8年連続本塁打王も獲得する超一流の打者であった。度重なる移籍があったものの生涯パ・リーグの球団に所属し続けたため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。通算2500本安打を達成した試合後のインタビューで「や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答えている。

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解説者として

引退後はテレビ朝日とサンケイスポーツの野球解説者をしていた。なかでもテレビ朝日の野球解説者時代には、野球中継の際にストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」なるものを使用して投手の配球を心理的に説明する解説が評判を呼んだ。

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監督として

1990年からまで1998年までヤクルトスワローズの監督となる。当時弱小球団であったヤクルトに徹底したデータ重視の「ID野球」を浸透させ、「一年目で種をまき、二年目で芽を出させ、三年目で花を咲かせる」の宣言どおり就任3年目にリーグ優勝を果たす。有能な捕手は常勝チームの要であるという運営方針を実現するため、古田敦也を超一流の捕手に育て上げた。通算9年間で優勝4回(うち日本一3回)の成績を残した。とりわけ他球団を退団した選手を集め再度活躍させたことから「野村再生工場」と評された。またこの期間に野村監督が徹底的な巨人叩きを行っている。これは、球界全体を活性化させることを目的に球界の盟主たる巨人をライバル視し、ヤクルトのフロントと協議のうえで「パフォーマンスとして」巨人叩きをしていたという。この結果、長嶋vs野村の構図で1990年代のプロ野球を盛り上げるのに一役買ったことになる。
ヤクルト時代の監督手腕を買われ、翌1999年から2001年まで阪神タイガースの監督として采配を振るったが、こちらは3年連続最下位。その上、またしても妻・沙知代の不祥事(こんどは脱税)により窮地に追い込まれ、後任監督として星野仙一を推薦して監督を辞任した。
以降は社会人野球・シダックスの監督として弱小チームを都市対抗野球で準優勝するまでに成長させていた。この手腕が評価され、設立2年目の東北楽天ゴールデンイーグルスに乞われるかたちで2005年から通算4球団目の監督に就任する。2009年には就任4年目にして初のクライマックスシリーズ出場を果たした。監督業は、74歳という高齢を理由にこの年限りで勇退している。
監督としての成績は優勝5回(うち日本一3回)、通算では3204試合1565勝1563敗76分(勝率.5003)、Aクラス12回、Bクラス12回であった。

采配面では、捕手出身ならではの打者心理を重視したデータ重視野球が特徴的であるが、ヤクルト監督時代には気に入った投手を酷使して潰してしまうことが多く、これが連覇できなかった原因ともいわれている。また楽天監督時代にも、自身の持つ「右打ちの打者には右投げの投手を、左打ちの打者には左投げの投手をぶつけるのが有効」という方針(俗に「左右病」とも揶揄される)に忠実に投手の起用を行うため、相手打線に左打ちと右打ちの打者が交互に並んでいる際にそれに合わせて次々とリリーフ投手をつぎ込むことがある。このときにたとえ調子の良い投手がしっかりと抑えていても、相手打者の打席の左右にこだわり別の投手に交代、その結果代わった投手が打たれ負けてしまう試合が多々あった。この「左右病」の代表例として、阪神監督時代、左のリリーフエース・遠山奬志と右のリリーフエース・葛西稔を有効利用するため、遠山と葛西を交互に二度起用したいわゆる「野村スペシャル」*2がある。

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久米田康治との関連

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久米田康治との関係

野村監督自身がネガティブ系のキャラクターであるためか何度か作品内で取り上げられている。

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さよなら絶望先生 作品内にて

14話では、の868本塁打に対する野村の657本塁打が日陰者として取り上げられた。また、息子・カツノリとのべったりの関係についても61話では野村監督と「有縁仏」として、また67話では七光り選手起用が「世界(親の)遺産」としてそれぞれ取り上げられている。
そのほか、22話では、上述の野村スコープがネタにされたほか、選手起用については、上述の野村再生工場が155話で取り上げられ、また負け試合での不可解な継投については198話で羅列ネタにされている。

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かってに改蔵 作品内にて

第47話に天才塾人事コースのモムラなる人物が登場、モムラスコープで人材を適材適所に配置していたが、坪内地丹の運動能力を見出せず自由契約にした。


*1 解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった伊東芳枝のチームへの介入・公私混同であったという。なお伊東芳枝は、沙知代」へと改名。1978年4月に前妻との離婚が成立した野村克也と結婚している。
*2 また遠山が移籍前の千葉ロッテマリーンズで野手経験があることを利用し、左打者に対し遠山登板→右打者には遠山を一塁に守らせ葛西を登板→左打者になった際、遠山・葛西の守備位置入れ替えで再度遠山登板→右打者になったら再度葛西登板という「遠山-葛西-遠山-葛西」起用であった。

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最終更新時間: 2011-12-30 (金) 02:02:02 (2512d)