秋元康

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秋元康(あきもと やすし)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1956年5月2日 東京都目黒区 CENTER:作詞家
音楽プロデューサー


中央大学文学部中退。
ほかに放送作家や映画監督業など活動は多岐に渡る。
妻は元おニャン子クラブの高井麻巳子。

経歴[編集]

放送作家・作詞家[編集]

高校時代、受験勉強中にラジオ番組「せんだみつおの足かけ二日大進撃!」を聞き、せんだを元ネタとした平家物語を書き上げ、送り先のニッポン放送の社員だった亀渕昭信[1]の目に留まり才能を見出された。それをきっかけに弱冠17歳の若さで放送作家としてデビューする。


その後、放送作家に物足りなさを感じていたところ亀渕氏からPMP(現・フジパシフィック音楽出版)の朝妻一郎を紹介されたことから作詞を手掛けるようになる。代表作は「ドラマティック・レイン」(稲垣潤一)、「川の流れのように」(美空ひばり)、「ガラガラヘビがやってくる」(とんねるず)など。
なお、とんねるずやおニャン子クラブ、AKB48に多く作詞を提供している。

音楽プロデューサー[編集]

1985年にアイドルユニット「おニャン子クラブ」[2]のプロデュースを手がけ成功をおさめる。「おニャン子」からは国生さゆり、渡辺美奈代、渡辺満里奈、工藤静香、生稲晃子ら多くのタレントを輩出した。
2005年には「AKB48」をプロデュースし、こちらも大成功。その後も名古屋拠点の「SKE48」、大阪拠点の「NMB48」、福岡拠点の「HKT48」、インドネシア拠点の「JKT48」と範囲を広げたり、公式ライバルの「乃木坂46」も登場させ成功に導いている。

その他[編集]

上述した作詞家や音楽プロデュース業にとらわれず、1998年からセガの社外取締役に就任して湯川英一専務を起用した自虐的広告や販売戦略などを手がけて話題になるなど、他業種でのプロデュースも行っている。
執筆も多く、漫画原作者として「OH!MYコンブ」(作画:かみやたかひろ)、「ナースエンジェルりりかSOS」(作画:池野恋)、「あずきちゃん」(作画:木村千歌)などを手がけ、映画監督(代表作は「グッバイ・ママ」や「川の流れのように」など)を務めるなど活動は多岐に渡る。
ほか、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』がベストセラー作家となり、久米田康治が挿絵を描いた『エースの系譜』の著者である岩崎夏海は大学卒業後から秋元に長年師事していた弟子にあたる。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生作品中[編集]

AKB48がらみのネタで登場することが多い。

  1. のちにニッポン放送の社長に就任した(任期は1999年~2005年)。
  2. 1987年に解散。