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ページの作成:「<!-- &tag(人物,起業家・政治家,チェ・ゲバラ); --> ==チェ・ゲバラ(Che Guevara)== {| class="wikitable" |- |~本名 |~生年月日 |~没…」
<!-- &tag(人物,起業家・政治家,チェ・ゲバラ); -->

==チェ・ゲバラ(Che Guevara)==


{| class="wikitable"
|-
|~本名
|~生年月日
|~没年月日
|~出身地
|~職業
|-
|エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
|1928年6月14日
|1967年10月9日
|アルゼンチン
|革命家、政治家、軍事指導者
|}

「チェ」はアルゼンチンのスペイン語で相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名で、海外ではチェ・ゲバラよりも「エル・チェ(僕らのチェ)」と呼ばれる事が多い。<br />

===経歴===
====誕生====
1928年、アルゼンチン第二の都市ロサリオで誕生し、ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年にオートバイで南アメリカを回る放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちに[[カール・マルクス|マルクス]]主義に共感するようになった(この旅行を著した『モーターサイクル南米旅行日記』は後に『モーターサイクル・ダイアリーズ』として映画化もされている。)。<br />

====革命活動への参加====
ゲバラが青年期をすごした1950年代は、米ソの冷戦が世界各地で様々な政治的・軍事的紛争を巻き起こした混乱の時代であり、南米各国もその渦中とは無縁でなかった。アメリカに後押しされた親米派政権国は軒並み圧政と経済格差を抱えていた。ゲバラの母国であるアルゼンチンも第二次大戦後はアメリカと対立し、独裁政権下の国内情勢は不安定で、ゲバラにとっては憂いの種だった。

大学を卒業した直後の1953年、二度目のバイク旅行に出る。途中で訪れたボリビアでは革命が進行しており、それまで虐げられてきたインディオが解放され、自由な雰囲気が漲っている様子に大きな衝撃を受けるが、その一方で他に訪れた国々では腐敗した抑圧的政治が横行する現状を認識するに至る。<br />
この旅でグアテマラを訪問中、同国に亡命していた革命活動家のイルダ・ガデアと知り合い結婚。社会主義思想をさらに強めていく。しかし革命政策を進めるグアテマラの政権はアメリカの支援を受けた軍部のクーデターによって崩壊。アルベンス大統領は亡命し、軍事独裁政権へと一変。これに怒ったゲバラは武力革命で南米の政道を変えることを志すようになった。<br />
のちゲバラ夫妻もグアテマラ政府に命を狙われメキシコに脱出。1955年に同じくメキシコに亡命していたフィデル・カストロと知り合い、彼の母国キューバの独裁政権打倒に協力する。<br />
1956年、カストロと共に革命軍を組織してメキシコからキューバに渡り武装闘争を開始。次第に国内の反政府組織を結集させて劣勢を挽回し、1959年に大統領のフルヘンシオ・バティスタを亡命に追い込む。<br />

====政治家から革命指導者へ====
革命政府樹立後はキューバ新政府から市民権を与えられ、国立銀行総裁に就任。閣僚を歴任し外交と社会主義制度の樹立に尽力するが、1960年にソビエト連邦と正式に国交を結び、カストロがキューバ国内のアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると翌年1月に断交を宣言。<br />
これに対しアメリカのアイゼンハワー大統領もキューバとの国交を断って経済封鎖を行い、後任のケネディ政権でも継続された。このためキューバは資源不足となり国内経済が悪化。さらに1962年にはキューバ国内にソ連の弾道ミサイルが配備された事で一触即発の状態となり(キューバ危機)、武力衝突は回避されたものの反体制派のキューバ人が多数亡命するに至る(アメリカがキューバ人地位調整法を制定して亡命者を受け入れたこともあり、約10年間で26万人以上に及んだ)<ref>2010年時点でのアメリカ在住の亡命キューバ人は約180万人おり、その2/3の約120万人がアメリカ大統領選の激戦地でもあるフロリダ州に住んでいる。また共和党所属の上院議員になったマルコ・ルビオやテッド・クルーズのように亡命キューバ人とその子孫の地位向上や政治進出も進んでいる。</ref>。<br />
緊張緩和の代償として疲弊が進む中、革命理想の徹底を追求するゲバラと冷戦構造下での現実的な生き残りの展望を模索するカストロら首脳陣と政治意識の相違が強まっていく。<br />
状況を打破するためゲバラは外交と通商交渉に奔走するが、1965年の第2回アジア・アフリカ経済会議にてキューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難<ref>キューバ危機において抗戦を主張するキューバの意向が無視され、米ソの代理戦争の収拾として決着したこと(米ソデタント)への不快感もあった。カストロも同様にソ連への不信を表明しており、以後ソ連との関係はやや冷えていく。</ref>したことでソ連の怒りを買い「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資援助を削減する」旨の通告を受ける。ゲバラはカストロにキューバの政治から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達にそれぞれ宛てた手紙を残してキューバを離れた。<br />
キューバを去った後は革命家として貧困や圧政に苦しむ国々の革命を指導する道を歩む。アフリカのコンゴで革命の指導をし、1967年には同じく軍事政権の独裁下にあったボリビアに渡ったが、同年10月8日、作戦行動中にボリビア政府軍の襲撃を受けて捕らえられ、翌日銃殺刑に処された。
====死後====
落命した後もゲバラのカリスマ的魅力は衰えることなく、冷戦構造が終わった後も南米では絶大な人気を誇っている。ただし反米・共産主義をイデオロギーにしていたため、親米派や反共主義の方面からは評価されていない。<br />
ゲバラを処刑した後もボリビア政府は報復を恐れ、彼の墓は死後長らく秘密にされ、処刑を執行した兵士は長らく軍の基地住まいとなり、顔の整形もせざるを得なかったという。<br />
のちボリビアも紆余曲折を経て民主化が進み、キューバと和解。1997年に遺骨がキューバに送られた。ゲバラの処刑現場となった小学校校舎は記念館となっている。<br />
ゲバラの死後もアメリカの歴代政権はキューバ打倒政策を継続してきたが<ref>これに対してキューバは1992年に国連総会で「米国の経済封鎖は国連憲章及び国際法違反」として経済封鎖の解除決議を提案、これは2014年まで23年間毎年圧倒的多数(加盟国95%の支持)の賛成で決議されているが、米国とイスラエルだけが反対し続けてきた。</ref>、中南米諸国の経済成長に伴う対米自立は進み、ラテンアメリカ・カリブ海の33カ国は独自にアメリカ抜きの経済協力共同体を築いている<ref>南米南部共同市場(MERCOSUR 5カ国加盟、1995年発足)、南米諸国共同体(UNASUR、12カ国加盟、2004年発足)、米州諸国民ボリバル同盟(ALBA、8カ国加盟 2004年発足)、中南米カリブ海諸国共同体(CELAC、33カ国加盟、2011年発足)などがある。</ref>。<br />
さらに軍事面でも、アメリカ主導の軍事同盟であるリオ条約(米州相互援助条約、23カ国加盟、1947年発効)も2012年時点でメキシコ、ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア、エクアドルが脱退するなど、中南米諸国のアメリカ追従は徐々に薄まる傾向にある。<br />
2015年にアメリカのオバマ政権は長年の敵視政策を転換し、キューバとの国交正常化に踏み切ったが、事実上のアメリカの飛び地扱いになっているキューバ東南部のグアンタナモ基地および収容施設の租借問題の清算は頓挫したまま棚上げが続いている<ref>グアンタナモ租借は1902年にキューバがスペインから独立した際に後押ししたアメリカと契約したもので、カストロ政権以降は租借を認めておらず、租借料受け取りも拒否している。</ref>。<br />
キューバ側もゲバラ抹殺にも関与した亡命キューバ人で元CIAオフィサーのフェリックス・ロドリゲスが首脳会談に参加したことがBBCで報道された事に対しゲバラの娘であるアレイダ・ゲバラは「元CIAエージェントの会議列席は恥ずべきである」と批判しており、フィデル・カストロも2015年1月にハバナ大学入学70周年を記念したイベントに寄せた書簡で「アメリカを含む世界各国と友好な関係を築くことは大事だが、それでも私はアメリカを信用していない」と述べており、未だ両国友好の前途には不安材料がくすぶっている。
====日本との関係====
意外と日本にも縁があり、キューバ閣僚時代には1959年に工場視察などで訪日しており、翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。また、本人が反米的イデオロギーを持っていた背景もあり、訪日時には広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院も訪れている。この縁でゲバラの娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている<ref>ちなみにカストロも2003年に来日した際にはゲバラと同じく広島を訪れ、慰霊献花をしている。</ref>。<br />
日本人についてはその勤勉さに深く感心していたという。また、革命家として坂本龍馬を尊敬しており、龍馬の雄大な思想と大胆な行動力は自身の生き方にも大きな影響を与えられたという。<br />
こうした背景からキューバは社会主義国の中でも親日として知られており、日本人のキューバ入国はビザ免除も認められている。

日本側もゲバラへのリスペクトから伝記や手記等が出版され、漫画やアニメ、ゲーム等にもしばしば登場している。<br />
中でもゲバラとカストロ(2Pキャラ)を操作して敵兵を蹴散らし、ラスボスがフルヘンシオ・バティスタ、タイトルも『ゲバラ』という直球な内容のアクションゲームがアーケードゲームとファミリーコンピュータ用ソフトで発売されたこともあったほどで、当時遊んだユーザーに学校の世界史では教わらない歴史をさりげなく伝えていたことから、若年層にもわりと知名度があったりする。<br />

===久米田作品との関連===
====[[さよなら絶望先生]]との関連====
彼の終生理想を追い求めて戦った生き様と、渋くダンディな風貌は現在も有名であり、
『さよなら絶望先生』の作中内では、Tシャツのデザインなどに彼の顔が描かれることがある。<br />
また、[[木津千里]]はゲバラについて詳しく、彼の伝記映画も上映している。

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