仁志敏久

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仁志敏久(にし としひさ)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1971年10月4日 茨城県古河市 プロ野球選手→野球解説者・野球指導者

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

常総学院高校1年の頃からレギュラーの座を掴み、島田直也(元横浜ベイスターズほか)とともに甲子園出場を果たすなど大活躍。卒業後早稲田大学に進学し、キャプテンとしての重責を担う。遊撃手ベストナインに選ばれるなど輝かしい功績を残し、ノンプロの日本生命野球部に入部した。

巨人軍入団後[編集]

1996年にドラフト2位(当時逆指名可能)で読売ジャイアンツに入団。ルーキーで三塁手の座を獲得し新人王も獲得。翌年1997年より小さい身体を活かして二塁手の座を守り、2000年の日本シリーズでも福岡ダイエー(現・ソフトバンク)ホークスを下し日本一に貢献。


2002年、原辰徳が監督就任(第1次政権)すると、当初は清水隆行を1番、仁志を2番に固定する予定だったが、不振にあえぎ更に故障でその座を二岡智宏に奪われてしまう。それでも復帰後は7・8番を任されることとなるものの、勝負強さを発揮し日本シリーズでも西武ライオンズを下し2年ぶりの日本一に貢献する。


しかし2003年シーズン初頭、守備で打球(フライ)を追って元木大介と激突。これが尾を引いたのか不振にあえぎ原監督も退団。翌年堀内恒夫が監督に就任し1番を任されるがほぼ不振に終わる。2004年オフにフリーエージェント(FA)宣言でメジャーリーグ移籍を要望するもお呼びがかからず残留。2006年原監督復帰(第2次政権)も脇谷亮太らの台頭や手首骨折でシーズンの半分を棒に振り、自ら志願して小田嶋正邦プラス金銭の交換トレードで横浜ベイスターズに移籍した。

横浜ベイスターズ時代、現役引退まで[編集]

2007年開幕から28試合連続出塁記録を樹立も後半失速しチームは4位。2008年に再び最下位に低迷する中、2番打者としてほぼ定着。2009年9月14日に戦力外通告を受け、メジャーに挑戦すべく渡米。


2010年4月10日、アメリカ独立リーグのアトランティックリーグに加盟するランカスター・バーンストーマーズに入団する。しかし右太腿痛の悪化によりメジャー昇格は夢で終わり、この年の6月8日に現役を引退した。


引退後は野球解説者の仕事をしながら、筑波大学大学院で体育学を学び、同時にプロ野球日本代表チームの守備・走塁コーチを務めている。2016年からは、U-12日本代表チームの監督に就任している。

久米田康治さよなら絶望先生との関連[編集]

181話久米田先生が、巨人から北海道日本ハムファイターズに移籍した選手として二岡智宏と間違えてなぜか仁志の名前を書いてしまうミスを起こす。以降、不幸にもこの間違いに関する久米田先生の自虐ネタに巻き込まれる形でしばしば名前が登場するようになってしまった。


また、この自虐ネタ登場以前にも59話原辰徳監督に避けられた選手として似顔絵入りで取り上げられていた。