宮崎吾朗

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宮崎吾朗(みやざき ごろう)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1967年1月21日 東京都 アニメ映画監督


略歴・人物像[編集]

生い立ち[編集]

宮崎駿の長男として1967年に東京で生まれる。弟の宮崎敬介は木版画家。
父が多忙のため幼少期は母子家庭に近い状態であったと語られている。幼少の頃から父のアニメ製作現場を度々見学していたことも縁もあって父のアニメ作品もよく鑑賞しており、父とは旧知の間柄であるアニメ監督の押井守とは成人後も親交を持っている。
父のアニメ作品も幼い頃からよく見ており、自分も絵を描くことを趣味とするようになる。

建築業界へ[編集]

信州大学農学部森林工学科に入学、在学中は児童文化研究会に在籍し、子供向けのイベントや人形劇の製作に携わる。
卒業後、建築設計事務所に入社して公園緑地や都市緑化などの計画・設計に従事する。のち、父の宮崎駿がスタジオジブリの美術館を作る計画が立ち上がり、ジブリ作品のプロデュースを務める鈴木敏夫からの誘いを受けて1998年にスタジオジブリに入社。三鷹の森ジブリ美術館の設計と総合デザインに携わる。
この際には父の構想を美術館に反映させることに尽力しつつも建築業界の本職として法律的制約や明確な具現性も重視したため、父の提案でも無理や曖昧さがあると判断したら毅然と撥ねつけて議論を重ねる姿勢で臨み、美術館完成後は運営会社の代表取締役に就いている。鈴木からは「頼もしい仕事ぶり」と高く評価されている。

~初代館長を務めた三鷹の森ジブリ美術館の設立当時を振り返り
吾朗:「木造建築がいい」「ここの柱を取れ」と要望を次々出してくるが、それは建築基準法上、不可能。だから、いちいち僕が説き伏せる。
   そうするとすぐ「なんでだ!」って。本当にひどかった(苦笑)。
川上:アニメーションを作るときには現実主義者なのに・・・
吾朗:専門外になると、すぐ「なんでだ!」が出てくる。好奇心が強すぎて。

川上量生著書『コンテンツの秘密―ぼくがジブリで考えたこと(NHK出版新書)』発売トークイベント「コンテンツ作りにおける天才とは?」 東京・代官山 蔦屋書店にて2015年6月16日開催。

アニメーションの世界へ[編集]

2006年7月公開のアニメ映画『ゲド戦記』の制作に参加した際に鈴木敏夫の推薦で監督に抜擢。しかし父の駿は最初猛反対し、推薦した鈴木も批判を受けたが粘って説得を重ねて了解を取りつける。
同作公開前の関連イベントで吾朗監督は、これまで全く監督経験が無くいきなり長編アニメを手がけることで父に「本当にやる気があるのか?」と大反対され、「やる気がある!」「やる気がない!」で思わず父子ケンカになってしまったエピソードを語っていた。

その実情としては、監督抜擢の発起人でもあり宮崎作品を一貫してプロデュースしてきた鈴木敏夫は吾朗氏招聘にはポスト宮崎駿を見据えた人事の必要に迫られていたことを述べている。

前提として、ジブリの今後という問題があります。(中略)だけど、宮さんは作る方は天才でも、教えるのは決してうまくない。彼を助手席に乗せて運転すればすぐに分かります。
横からいちいち口を出すから、大抵の人はノイローゼになってしまう。『魔女の宅急便』(89年)も『ハウル』(2004年)も、最初は別の人が監督をやる予定だったのが、結局宮さんになってしまったように、
映画作りでもそういう光景を何度か見てきた。もちろん宮さんに悪気はないんですよ。でも、実際に十二指腸潰瘍になって来なくなってしまう人もいる(笑)。
そこで思いついたのが、吾朗君の存在。彼を間に挟めばうまくいくんじゃないかと。(中略)それで宮さんに吾朗君にやってもらうのはどうかと話したら、
「鈴木さんが説得をして、本人がやるというなら仕方ない」ということになって、依頼したんです。
(中略)二人はまったく口をきいていません。つい最近まで宮さんが美術館用の短編を同じフロアで作っていたのですが、お互いの声が聞こえても決して接点を持とうとしなかった。
部屋の中ですれ違いそうになるとすっとお互いを避けて踵を返していたほどです。

(2005年読売新聞インタビューより抜粋)


後進を育てたい鈴木の思惑通り、父の介入[1]を断った環境下で監督を務めたが、以前に直接映像制作に関わった経験が全くない上での起用には物議が起き、完成作品も76.5億円の興行収入を得て同年の邦画興行収入1位になったものの、作品論的評価では芳しくない意見が多い。
ちなみに、同作品の原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンは宮崎駿と面会した際、『ゲド戦記』のアニメ製作に参加しないのか尋ねたところ、「親子でひとつの作品に名を連ねるなんて恥ずかしくて出来ません」と返されたと回想している。

次回作として、1980年に「なかよし」で連載されていた高橋千鶴・佐山哲郎の少女漫画『コクリコ坂にて』の監督に就任[2]。2011年7月に公開され、こちらも同年の邦画興行収入第1位となったが、興行収入は44.6億円と前作を下回った。

スタジオジブリを離れての活動[編集]

2014年からは初のテレビアニメ作品であり、ポリゴン・ピクチュアズがフル3DCGで製作する『山賊の娘ローニャ』(全26話)の監督を務める。スタジオジブリは製作協力として参加している。
2014年9月に開かれた同作のプレミア試写会にて「『コクリコ坂から』が終わった後、ジブリで腐っていたところ、川上(&ruby(のぶお){量生};)[3]さんに声をかけてもらった。(ジブリの)鈴木(敏夫)プロデューサーに『ジブリにいる限り、宮崎駿の影響から逃れられない。外でやってこい。武者修行だから』『どうせやるならCGで』と言われた」と就任の経緯を語った。一方で「本当にジブリに帰れるのか心配。(ジブリが2014年の株主総会で製作部門の活動停止を発表した事を受けて)皆さんと同じような現状認識しかないので、ジブリがどうなっているのか分からない。武者修行に行ったままになるのかも・・・」と不安も見せた。
また「父が宮崎駿なので、この年になっても息子であることを意識し続けている」「ジブリは宮崎駿のスタジオで、そのセオリーや考え方がベースにある。僕が追い求めているものと食い違うこともあるけど、突破できない」と述べ、先に鈴木氏が駿氏の後継者として庵野秀明氏を指名した件については「自分のことを作家とは思っていない。作家性を持った作品を作るのなら庵野さん。僕は“ポスト宮崎駿”にはなりえない」とコメントし、父とは別の方向性を模索する胸中を明かした。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

ゲド戦記』の低評価と併せて、否定的な視点でネタになることが多い。


  1. 駿氏が製作現場に介入したがる傾向は吾朗氏以外のケースではあったようで、駿氏が製作に一切関与していない『思い出のマーニー』では駿氏の「助言」という形での現場介入があったが、監督の米林宏昌は謹んでこれを拒んだと公開時のインタビューで明かしている。
  2. 脚本は駿氏が担当しているが、同作と『借りぐらしのアリエッティ』は若手の登用と育成のためのプロジェクトとして立ち上げられており、どちらも企画と脚本だけ駿氏が担当する約束となっている。
  3. IT関連企業ドワンゴの創業者で、吾朗氏とは同年代。スタジオジブリの社員、庵野秀明氏のアニメ製作会社である株式会社カラーの取締役、角川グループの持株会社である株式会社KADOKAWAの取締役も兼任している。