宮崎駿

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宮崎駿(みやざき はやお)[編集]

~本名 ~生年月日 ~出身地 ~職業
CENTER:宮﨑 駿
みやざき はやお
1941年1月5日 東京都文京区 アニメーション作家・映画監督
株式会社スタジオジブリ取締役



アニメーション映画監督。
スタジオジブリを拠点に長編アニメを手がけ、いずれも大ヒットしている。代表作は『風の谷のナウシカ』や、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』など。
実子の宮崎吾朗もアニメ監督になっている。

略歴・人物像[編集]

生い立ち[編集]

1941年東京府東京市生まれ。
父は中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していた宮崎航空興学の役員。幼年時代に太平洋戦争による空襲から疎開して栃木県・宇都宮に移住、その後小学校3年生まで暮らしていたという。小学校4年に進級時に東京都杉並区に転居。東京都立豊多摩高等学校卒業後、学習院大学政経学部卒。
裕福な家庭の生まれであり、幼少時は身体が弱かったこともあって熱心な読書家であったと。また、絵はずば抜けて上手かったこともあって、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあったという。

アニメーションの世界へ[編集]

高等学校在学中に、日本最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(東映動画製作)を見たことがきっかけでアニメーション制作にも関心を持つようになったが、進学した学習院大学には、アニメはもちろんのこと漫画を取り扱うサークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークルである「児童文化研究会」に所属。ここでいくつかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていた。その後、漫画かアニメーションかを悩んだ末、アニメーションの世界へ進む事を決断、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社した。


入社後しばらくは動画などを手がけていたが、ソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、先輩の高畑勲、森康二、大塚康生らと共に3年がかりの大作『太陽の王子 ホルスの大冒険』を作り上げた。ちなみにこの頃に先輩アニメーターで3歳年上の大田朱美と結婚している。
しかしながら、当時の宮崎は東映動画で制作されていた作品群に魅力を感じることが出来ず、また制作のメインスタッフでありながら労働争議など左翼活動に没頭し、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任するなど激しい組合活動に身を投じてしまう。その結果として、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社することになってしまった。

アニメ監督への道[編集]

東映動画を離れた後、アニメーション制作の高い技術を買われて東京ムービー傘下のAプロダクション[1]に移籍した。ここではアニメ『長靴下のピッピ』の制作が期待されていたが、これが版権の問題で立ち消えになってしまう。東映時代の上司でもあり、先にAプロに移籍していたアニメーターの大塚康生は、仕事に穴が開いた宮崎と高畑の新たな仕事として、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』(1971年)の演出を依頼することとなる。
宮崎と高畑の手によって、ルパンのキャラクターは退廃したフランス貴族の末裔から陽気なイタリア系の貧乏人へと変化させられ、アンニュイな雰囲気をまとったハードボイルド演出から低年齢向けの活劇的演出へと変更された。この演出変更により『ルパン三世』の人気はじわじわと上昇していったが、半年間(全23話)で放送が打ち切りとなった。しかしながら数年後に夕方の再放送枠でテレビ放映されたことで人気に火が付き、局によっては20%台という脅威の高視聴率を叩き出したため、宮崎の評価が高まることとなった。だが、この後に製作された『侍ジャイアンツ』(1973年)の作風に合わなかったため高畑と共にAプロを退社[2]
のち高畑がズイヨー映像(後の日本アニメーション)に移籍し、演出を担当することになったアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)の製作に加わる。宮崎は高畑と共に海外ロケハンも行い、画面構成を担当[3]。主要スタッフとして1年半にわたり参加したこの作品は、最高平均視聴率26.9%を記録する大ヒット作品となった。 1978年、アニメ『未来少年コナン』(NHKテレビ)にて、事実上のアニメ初監督を務める[4]。宮崎は高畑のサポートも受け、持ち前の高度な作家性を発揮して原作『残された人びと』の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよいほどの壮大な冒険譚を作り上げた。同時期には、映画『ルパン三世 カリオストロの城』にてアニメ監督を務めた。これら作品は日本アニメーション史における金字塔的作品として高い評価を受けている。
一方でこの時期の宮崎は、いくつかのアニメ企画について、作品演出上のこだわりから制作を降板することが多くなった。やがて宮崎はオリジナル作品の制作という野望を抱くようになり、すでに『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画は構想されていたという。

宮崎の映画監督としての才能に惚れ込んだ徳間書店の徳間書店アニメージュ誌副編集長の鈴木敏夫は、こうした宮崎を取り巻く環境を慮って、オリジナルアニメ映画『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。しかし当時の徳間書店上層部によって「原作のない作品をアニメ化するのは不可能」という理由で却下された。 そこで『未来少年コナン』の時から宮崎に注目していたアニメージュ編集長・尾形英夫の手によって、オリジナル映画企画実現のため「原作」としてアニメージュ1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載を開始[5]、期せずして宮崎は漫画家となった。
やがて多くの読者の支持を受けて尾形編集長が映画化を徳間書店に再度打診。徳間康快社長から共同出資社を見つける条件で承諾を得る。プロデューサーとして高畑勲も参加し、徳間書店と博報堂が主導する形で映画製作が決定[6]。1984年にアニメーション映画『風の谷のナウシカ』として公開された。映画の興行収入は7.4億円で大ヒットには及ばなかったが[7]、ソフト販売では売上トップを飾ったことで人気が上昇。映画監督としての宮崎駿が広く認知されることとなった。

スタジオジブリ設立[編集]

”ナウシカ”の大成功を受けて1985年に、徳間書店出資のもと『風の谷のナウシカ』の製作母体となったトップクラフトを改組する形でスタジオジブリが設立された。宮崎と高畑を頂点とするアニメ制作拠点を得て以降宮崎は2-4年おきに長編作品を製作している。
天空の城ラピュタ』(1986年)、『となりのトトロ』(1988年)、『魔女の宅急便』(1989年)などの低年齢向けアニメ作品が次々と制作され、宮崎は国民的映像作家としての地位を確立していった。
1997年に公開された『もののけ姫』は、これまでの低年齢向けアニメとは一線を画したメッセージ性に富む難解な演出もあいまって、日本の映画興行記録を塗り替え、さらにジブリの業績下降も回復させる大ヒット作となった。
2001年に公開された『千と千尋の神隠し』はその興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。


2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様日本国外においても高く評価され、2005年のヴェネツィア国際映画祭においても優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。翌2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された[8]
2008年公開の『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネツィア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。


引退へ[編集]

2013年に、自身の同名漫画を原作としたアニメーション映画『風立ちぬ』を公開。
同年の第70回ヴェネツィア国際映画祭で、『風立ちぬ』を最後に長編映画の製作から引退することがスタジオジブリから公式に発表。2013年9月6日に引退記者会見が開かれた。
理由として、作品製作を重ねるごとに携わる期間が長くなっている傾向と、自身の年齢的な問題を挙げている。なお、『風立ちぬ』の製作中には体調を悪くしたことがあり、病院に検査を受けに行くところが週刊誌に報道されている。

引退後[編集]

映画の仕事を引退した後も創作からは完全引退しておらず、2013年11月からは戦国時代を舞台にした漫画の執筆に取り組んでいる(『月刊モデルグラフィックス』誌上で連載予定だが2014年現在において発表時期は未定)。ほか2014年には三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけるなど、独自の活動を続けている。

また、2014年8月に鈴木敏夫氏がNHKの番組『あさイチ』に出演した際「宮崎駿もつくりたいみたいな・・」と発言。「僕の予想ですけれど、まず短いものはやりますね」「三鷹の森ジブリ美術館で短編アニメをつくっているので、そういうものだったらやってみたいと。ただ何をやるか、これが難しい。どうしたら子供たちが喜んでくれるものを、どうつくるべきか、そこですよね」と短編製作への意欲を持っている旨をコメントした。

受賞歴[編集]

『千と千尋の神隠し』は第30回アニー賞・長編アニメ映画賞・監督賞・脚本賞・音楽賞、第75回アカデミー賞・長編アニメーション映画賞を受賞、 『ハウルの動く城』が第61回ヴェネツィア国際映画祭・金のオゼッラ賞を受賞。第16回ザグレブ国際アニメーションフェスティバル・功労賞、シッチェス国際映画祭・特別審査員賞を受賞するなど海外での評価も高い。
2012年には文化功労賞に選ばれ、2014年には第87回アカデミー名誉賞の受賞が決定。黒澤明以来2人目の日本人受賞者となる。

特徴[編集]

軍事マニア[編集]

戦史・兵器マニアとして知られる。甲冑や鎧兜などの武具に加えて、装甲車・戦車・航空機などにも造詣が深い。模型雑誌『月刊モデルグラフィックス』では主に第一次大戦、第二次大戦の兵器を題材に独自の見解と想像を描いた『宮崎駿の雑想ノート』も連載していた。
ジブリ映画の作中にもたびたび飛行機などの乗り物が詳細に描かれており、その描写にはマニアとしての知識がふんだんに盛り込まれている。引退作となった『風立ちぬ』では、零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日を精密な航空機の描写とともに丹念に演出し、高い評価を得た。

声優の起用方針[編集]

宮崎駿監督のキャスティング方針として、 1992年公開のジブリ映画『紅の豚』以降は、男女問わず主要なキャストに職業声優の起用を避ける傾向がある。この起用方針については諸説ある。宮崎は外国メディアに対するインタビューで「日本の女性声優はコケティッシュな声の持ち主しかいないし、男性的な視点が欠けている。我々は全く必要としていない」と述べたとも、逆に発言はあくまで建前であり、本音はアニメ映画というだけで実写映画とは同列に扱ってもらえないという不満の裏返しであるとも、あるいは芸術性とは一切関係なく、あくまで有名俳優をキャスティングすることで話題づくりになるという商業的な理由からプロデューサーの鈴木敏夫が意図した手法に過ぎないともされるが、その真意は不明である[9]。また、アニメ監督の北久保弘之は「宮崎氏は全般的に音響や声優への興味が薄く、キャスティングはほぼ鈴木氏に任せている」と証言している。
これについて宮崎や鈴木からの公式な発言は特にないが、2011年に『借りぐらしのアリエッティ』の製作に前後して、スタジオジブリ広報部長の西岡純一が投稿動画でその経緯と理由を述べている。

キャスティングの際にはキャスティング専門の外部スタッフと協議して決定している。
動画枚数の少ないテレビアニメの場合、それを補うべく声優の誇張した演技に頼る要素が多かったが、
ジブリ作品は作画にも手間をかけ実写映像に近い感覚で製作しており、
それに合う演技を求めると声優に違和感を感じる。
普段人間がごく普通に話している雰囲気の芝居をジブリでは求めている。

近年では宮崎が引退し、鈴木もキャッチコピー以外のプロデュースを担っていない『思い出のマーニー』(2014年公開)でも傾向は特に変わっておらず、スタジオジブリの社風とも言われている。

ロリコン?[編集]

作品中における少女の描写に掛ける熱意は並々ならぬものがあることから、かねてからロリコン疑惑が指摘されている。
アニメ映画監督として旧知の仲である押井守は宮崎について「僕は現実で小さな子供に興味を持ったことないからさ。 あのひとはあるんだよね。 いつか酔っ払ってたのかシラフだったのか 「十二歳の女の子と恋愛してどこが悪い」 って叫んでましたよ。 はっきりいってたからね。」とコメントしている。


宮崎監督作品のヒロイン像としては『未来少年コナン』のラナ、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリス、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『天空の城ラピュタ』のシータ、『紅の豚』のフィオ、『もののけ姫』のサンなどが典型であろう。血統的には王家の姫あるいは高貴な出自であり、表面的な言動は精神年齢15歳前後の世間知らずの無垢な少女を基本として、その背景には重いものを背負いながらも屈せず、自分を捨ててでもそれを守ろうと戦う、肉体的には若々しくも胸の大きい成熟した母性を感じさせる、そんな女性がヒロイン像である。つまり母性と少女性のアンビバレンスな同居こそが宮崎の理想とする女性なのであろう。


なお、ロリコンの哲学について宮崎は『ルパン三世 カリオストロの城』に関するインタビューにて、ラストでクラリスに抱きつかれた際、抱きしめようと葛藤した揚句に手をひっこめ、やんわりとクラリスの想いをかわしたルパンの描写について問われ、「手を出さないのが真のロリコンだよ」と返答している。


久米田康治との関連[編集]

久米田康治との関係[編集]

行け!!南国アイスホッケー部作品内にて[編集]

太陽の戦士ポカポカ 作品内にて[編集]

かってに改蔵 作品内にて[編集]

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

映画作品では有名な描写やシークエンスを引用する一方で、度々反故になった引退発言や息子の宮崎吾朗が監督した『ゲド戦記』がネタになった。

せっかち伯爵と時間どろぼう作品内にて[編集]

00’05”/金の卵を産む伯爵00’12”/時をかける幼女において、ロリコンであるとことがネタにされている。


  1. 後に東京ムービーとの業務提携を解消して独立し、シンエイ動画に改組した。
  2. 宮崎は第1話の原画を担当したのち退社した。後年、インタビューで宮崎は「僕は野球に夢中になっている人間のことを、本当のことを言うと、理解できないんです」「高畑さんや僕の作りたいものとは違った」と述べている(『熱風』2009年2月号掲載分)。
  3. 当時絵コンテを担当した一人に富野由悠季がいる。
  4. クレジット上は「演出」となっているが、本作品では監督がクレジットされていないため、事実上の宮崎監督作品である。
  5. なお、連載のほうはたびたび中断されながらも足掛け12年、1994年3月号にて完結している。
  6. 宮崎は映像化出来ないものを描くつもりで『ナウシカ』を執筆していたため、映画化の知らせをを聞いた時には困惑したという。
  7. 1984年公開の長編アニメ映画では『ドラえもん のび太の魔界大冒険』の16.5億円の配給収入でトップになっている。
  8. 宮崎は創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退している。
  9. 鈴木は『イノセンス』など、ジブリ製作作品以外のプロデュースを手がけた際にも同じ手法を執っている。