森本稀哲

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森本稀哲(もりもと ひちょり)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1981年1月31日 東京都荒川区 CENTER:プロ野球選手→解説者

経歴[編集]

高校時代[編集]

帝京高校3年次に主将・遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に東東京代表で出場。
3回戦の島根代表・浜田高校戦において、和田毅(現・福岡ソフトバンクホークス)から同点ホームランを放つも敗退した。ちなみに高校時代の通算ホームラン数は34本。

日本ハム時代[編集]

1998年秋のドラフト会議において、日本ハムから4位で指名される。入団当初は内野手登録だったが、すぐに外野手にコンバートされる。
2000年頃から1軍公式戦において、代走守備要員として起用されるようになる。

2003年ヒルマン監督から『バーニー・ウィリアムズの再来』と評され、開幕スタメン出場を果たす。
4月だけで4ホームランを放つなど、当初は期待に答えていたが、打率が伸び悩み、結局は代走守備要員に逆戻りしてしまった。

だが2005年には課題だった打撃が向上し、この年103試合に出場・打率264・78安打・ホームラン7本とまずまずの成績を収めた。

そして2006年。レフトのレギュラーだった坪井智哉がケガで欠場することになり、代わりに出場したことがきっかけで、4月下旬頃から1番レフトに定着。
134試合に出場し規定打席に初めて到達。オールスターに初出場したばかりか、チーム メイトの新庄剛志・稲葉篤紀とともに外野手部門のゴールデングラブ賞を受賞と、まさに大化けした1年だった。

そして2007年には、引退した新庄の後釜としてセンターに定着。
不動のリーディングヒッターとして、全試合全イニング出場を果たす。
この年は打率3割丁度ではあったが、自身初の3割を記録。ゴールデングラブ賞を最多得票で受賞し、初めてベストナインにも選出され、2007年は名実ともに日本ハムの主力に定着したと言える1年だった。

しかし2008年5月25日の対東京読売ジャイアンツ戦において、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折。全治5週間と診断されたために翌26日には出場選手登録を抹消されてしまう。その影響からか、復帰後も成績が振るわず、レギュラー獲得後最低の打率253の成績となってしまった。
2010年オフにフリーエージェント(FA)宣言し、横浜ベイスターズに移籍。しかし、怪我と監督の若手主体の起用方針により出場機会が少なく、2013年10月に戦力外通告を受け自由契約になる。
2013年11月に埼玉西武ライオンズの秋季キャンプにテスト生として参加、同年12月に正式契約、2014年には主に一塁手として一軍出場、マルチプレイヤーとして活躍。
しかし、2015年には一軍で全く結果が出せず登録抹消、現役引退を発表した。

エピソード[編集]

“ひちょり”と言う名前の由来は、稀哲のハングル読み「ヒチョル」からとって彼の父親が命名した。但しなぜ稀哲にしたのかは不明。

父親が在日、母親が日本人のハーフ。小学時代は民族学校に通っていた。現在は帰化しているので国籍は日本国。

名前を正確に読めなかったのか、本名と思われなかったのか、それともふざけていると思われたのか理由は定かではないが、日本ハムに入団当初、選手名鑑などでは「ひろより」と誤った振り仮名が振られているものがあった。

新庄からは弟分のように可愛がられ、彼が引退した際には背番号1の後継者に指名されている。
また、本人もできればもっと早くに新庄には出逢いたかったと思っている節がある。

巨人の西村健太朗から死球を受けて欠場したとき、西村のニックネームがフランケンだったことから、『妖怪が宇宙人にケガさせた』と報じられた。

毎日手自ら剃刀を当てて髪と眉毛を剃っている。
これは小学時代に汎発性円形脱毛症に罹患し、体毛すべてが突如抜け落ちて生えてこなくなるという経験からである。
現在はほぼ完治しているが、当時の苦しみを忘れないために、同じ病で苦しんでいる人たちに勇気を与えるために、スキンヘッドにし続けている。

久米田康治さよなら絶望先生との関連[編集]

その独特の容貌、ユニークな言動から登場頻度も高く、完全にネタとしてセミレギュラー化している。

名前が登場するときは、必ず『ひちょり』と仮名表記である。
これは漢字表記だとまず読めないからだと思われる。

また似顔絵が描かれる場合は、デフォルメされてより宇宙人ぽく描かれている。