王貞治

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王貞治(おう さだはる)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1940年5月20日 CENTER:東京府東京市本所区&Br;(現・東京都墨田区) プロ野球選手→プロ野球監督


略歴[編集]

現役時代には巨人の主力打者として、本塁打王15回や通算868本などの華々しい成績を残し、「世界のホームラン王」と呼ばれた。また、ホームランバッターとしての活躍が注目されるが首位打者5回、最多出塁数12回のタイトル獲得している。元々甲子園優勝投手だった経歴もあってか選球眼も非常に優れており、通算四球が歴代一位であるなどのさりげない記録も残している。


第1回WBC日本代表監督として日本代表を初代チャンピオン(世界一)に導いている。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長。巨人OB会の会長も務める。

プロ入りまで[編集]

東京府東京市本所区生まれ。
区立本所中学時代に、のちに指導を受ける荒川博氏に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業学校高等部商業科に進学。早実時代は1年生の時に外野手兼控え投手として、2年生の時にはエースとして甲子園に出場。センバツでは3試合連続完封などの活躍により優勝、夏の甲子園でも延長11回を完投しノーヒットノーランを達成している。

プロ野球選手として[編集]

1959年に読売ジャイアンツに投手として入団後、水原茂監督の支持ですぐに一塁手に転向した。しかし入団当初は打撃成績も安定せず「王は王でも三振王」と揶揄される状態であったという。
選手として花開いたのは入団4年目、恩師・荒川博氏が巨人の打撃コーチに就任してから。二人三脚で修得した「一本足打法」により打撃力が格段に向上し、この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王の二冠を獲得。以降、13年連続・15回の本塁打王を獲得し、長嶋茂雄とのONコンビは巨人の黄金時代を支えた。
また、その打者としての偉大さから俗に「王ボール」というものが存在したといわれ、他の打者ならストライクのコースでも、王が見送ったらボールとされることが多々あったという。このほか1964年頃に広島カープ[1]の白石勝巳監督(当時)が王選手の打席時に、ライト方向に極端な守備位置を取る「王シフト」を試みている。


1974年にアメリカ・メジャーリーグでハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことから日米ともに本塁打記録への興味が高まり、王の通算本塁打記録にも関心が集まり始めた。1976年にアーロンが通算755本塁打で引退したことから、この年通算716本塁打となった王に世界記録更新への期待が高まった。
1977年9月3日にメジャーリーグ記録を抜く756号を達成。この偉業が称えられ福田赳夫首相(当時)から初の国民栄誉賞を授与されたほか、当時人気絶頂だったアイドル歌手・ピンクレディーが王をモデルにした「サウスポー」を唄い売り上げ180万枚の大ヒットとなるなど、日本中がお祭り騒ぎとなった。


1980年、30本塁打、84打点という成績を残しながらも「王貞治のバッティングができなくなった」として突然引退を表明。シーズン30本塁打は一般的にはスラッガーとしては恥ずかしくない優秀な成績だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。そのうえこの年の打率は.236と規定打席到達者の中で最低の打率であったこと、また長嶋茂雄監督が解任され、後任の藤田元司監督に助監督就任(選手兼任の予定であった)を要請されたことなどの複合的な要因であったようだ。王自身はのちに43歳まで現役を続けたかったと語っている。

監督として[編集]

助監督を経て1984年から1988年まで巨人の監督を務めた。優勝を経験している強豪チームを引き継いだにもかかわらず優勝から遠ざったこともあり、必ず送りバントなど堅実すぎる作戦はファンから面白くないと非難された。投手起用に関しては鹿取義隆投手の登板を告げる時の「ピッチャー鹿取!」が“王のワンパターンな采配を揶揄する”不本意な形で流行語になってしまい、河合じゅんじ、やくみつる、いしいひさいちら漫画家の格好のネタになってしまう。また現場でも自身より実績が劣るコーチ陣からのの進言に耳を貸さず、若手を中心とする選手との意識の断絶も指摘されるなどチーム運営は芳しくなかった。結果、監督としては5年間でリーグ優勝1回のみに終わり、巨人の監督としては評価されることはなかった。


1995年には心機一転、弱小チームであった福岡ダイエーホークスの監督に就任。すぐさま大型補強に取り掛かるが、成績は低迷。翌年にはファンから王監督や球団代表らを強烈に批判する内容の横断幕が掲げられたり、生卵をぶつけられるなどの暴挙を受ける。以降も自分のチームのファンから心無い仕打ちを受けるという、巨人軍で一貫してスター街道を進んできた王監督にとっては味わった事のないほどの屈辱を受け続けた時期が続いたが、「勝てばファンも拍手で迎えてくれる」とチームの戦力強化に邁進する。
結果、監督就任から4年目の1998年には長年の低迷を脱出するAクラス入り、翌1999年には球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに日本シリーズも制し監督として初の日本一になった。以降、2008年の監督退任まで優勝3回[2]うち2回日本一になっている。


この間、2006年3月開催の第1回ワールドベースボールクラシックの日本代表チーム監督に就任。日本を初代チャンピオン(世界一)へと導いている。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

作品内では王ネタが散見され、「王さんが自信満々で見送ったらボール」という王ボールに関するネタが180話184話で取り上げられているほか、203話『シフトは乱れて』では「王シフト」がネタにされている。


また、14話では、「の868本塁打に対する野村の657本塁打」が、日の当たるものと日陰者の対比として取り上げられた。143話『六月の崩袈裟固め』では、の次女・王理恵と朝青龍の診断でおなじみとなった精神科医・本田昌毅医師との婚約破棄がネタにされている。

  1. 現在の「広島東洋カープ」が正式名になったのは1968年から
  2. シーズン1位は5回だが、2004年と2005年はプレーオフで敗退し日本シリーズ出場を逃している。