菅直人

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菅直人(かん なおと)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1946年10月10日 山口県宇部市 政治家


第94代内閣総理大臣。民主党所属の衆議院議員。
東京工業大学理学部卒業。

略歴[編集]

市民派[編集]

東京工業大学理学部卒。なお、在学中には学生運動に参加し、卒業研究のために一年留年している。
在学中から市民運動に継投しており、日本の婦人参政権運動を主導した市川房枝の選挙スタッフを務め、1976年衆院選に無所属で立候補するも落選。その後も国政選挙に二度立候補するもののいずれも落選している[1]。1980年の衆院選で初当選した。この間に弁理士資格を取得して独立し「菅特許事務所」を開設していた。

政権運営に参加[編集]

所属する社会民主連合が1993年の細川&ruby(もりひろ){護煕};連立政権に参加すると、衆議院外務委員長を務める。1994年の社会民主連合解散に伴い、新党さきがけに入党。政調会長を務める。非自民連立が破綻し自社さ連立が成立すると、自民党政調会長の加藤紘一とあわせて「KKライン」と呼ばれた。
1996年1月、第1次橋本龍太郎内閣に厚生大臣として入閣。薬害エイズ問題では行政責任を認めて土下座をして謝罪した。この件は、官僚の激しい抵抗に遭いながらも官僚側の過失を証明し、「説明責任」を日本の行政に持ち込んだという点で評価されている。また、O157食中毒事件では記者会見で風評被害にあったかいわれ大根を食べるパフォーマンスも行っている。

民主党結党[編集]

1996年9月、鳩山由紀夫新党さきがけ代表幹事の新党構想に参加、鳩山・菅の共同代表体制として民主党(旧・民主党)を立ち上げる。1997年共同代表制の廃止に伴い党代表に就任する。1998年4月に他の野党勢力が合流し、現在の民主党となると初代代表となる。
1998年7月に参議院選挙で惨敗を喫した橋本第二次内閣が総辞職すると、菅は内閣総理大臣指名選挙で参議院から首相に指名されるも、衆議院で指名された小渕恵三が首相となる。その後の国会(通称:金融国会)では、バブル崩壊後の金融危機にともなう金融再生法を民主党が主導となって策定し、政局としない代わりに自民党に法案を丸呑みさせた。しかし、この態度が民主党に協力的だった自由党党首・小沢一郎の逆鱗に触れ、小沢は自民党と接触し自自連立を成立させることとなった。
1999年9月の党代表選挙で鳩山由紀夫に敗れるも、政調会長や幹事長などの党の要職を歴任する。

民自合併以降[編集]

2002年に党代表に就任。2003年に小沢一郎の自由党との合併を実現した。
2003年11月の衆議院選では同年に改正された公職選挙法をうけてマニフェストの作成・配布を行い、これを選挙戦に定着させる。内閣総理大臣指名選挙では参議院から指名を受けるも、再び衆議院の優位性に敗れた。
2004年に小泉純一郎内閣閣僚の年金未納問題が発覚すると「未納三兄弟」と揶揄し自民党に攻勢を仕掛けるも、自らの年金未払い記録が発覚[2]し求心力を失い党代表を辞任した。この後、自分を見つめ直すとして四国遍路を行った。
2006年から2009年まで民主党代表代行を務め、国会論戦を担当。この間、麻生太郎内閣の定額給付金を「毒まんじゅう」と評し話題となる。

鳩山由紀夫内閣にて[編集]

2009年9月に鳩山由紀夫内閣が発足すると、内閣府特命担当大臣[3]に就任。内閣総理大臣臨時代理の指定順位が第1位とされ、副総理[4]として入閣している。2010年1月には党内の路線対立から辞任した藤井裕久の後任として財務大臣に横滑り就任、以降は内閣府特命担当大臣(経済財政担当)の職務のみ引き続き担当し、それ以外の職務は他の閣僚に割り振られた。

仮免首相[編集]

2010年6月2日に混乱続きで急速に求心力を失った鳩山政権が瓦解、急遽開催された党代表選挙に勝利した菅は第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に正式に菅政権が発足した。菅は、前政権の混乱は小沢・鳩山体勢のマニフェストに原因があると分析し、マニフェストの修正にも取り掛かった。この動きはマスコミなどから"脱小沢"と賞賛されて内閣支持率は60%前後という高水準で内閣は出発した。しかし直後に行われた参院選では、突如消費税増税を主張するなどしたため支持率が急落、一転して楽勝ムードの参院選に敗北してしまう。しかし続投に熱意を燃やす菅は、脱小沢路線に活路を見出そうと小沢一郎と直接対決する党首選を行い、小沢を下して再選を果たした。この脱小沢の演出により内閣支持率は急速に回復するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島における中国漁船衝突事件への対応が批判を浴びたことなどにより、支持率は再び低下してしまう。12月には首相となって半年を振り返って「これまでは仮免許だった」と発言し非難を浴びた。
2011年に入って以後も支持率は下がり続け、政権は低空飛行状態となる。さらに前原外務大臣が外国人献金問題で辞職、さらに菅自身にも外国人献金問題が発覚。もはや辞任は時間の問題とされた。しかし国会で追及される予定になっていた2011年3月11日に東日本大震災が発生する。

東日本大震災への対応[編集]

東日本大震災に際して陣頭指揮をとるも、視察・対応のまずさなどもあり混乱が拡大。さらに首相記者会見などで事前の打ち合わせなく政策を発表し続けたため、閣内はもとより社会や国民にまで混乱をもたらしてしまった。結果、4月の統一地方選挙で民主党は惨敗。これにより民主党内からも菅首相への不満・反発が発生し、野党提出の内閣不信任案への同調の動きが生じ、菅内閣最大のピンチを迎えてしまう。

退陣表明~政権延命工作~内閣総辞職[編集]

菅は6月2日の不信任案可決直前に、震災の対応に「一定の目処がつき次第退陣」することを表明することで党内をまとめ、内閣不信任案に否決に成功する。しかし不信任案が否決されるや舌の根も乾かぬうちに態度を一変させ続投の意思を表明、結果として党内の味方を減らし権力基盤を不安定にしてしまう。さらに政権浮揚策として「脱原発」をキーワードとして脱原発解散による政権維持を目指すも、原発の再稼動問題で海江田経産大臣との対立、献金問題や夏場の電力不足への不満などから支持率の浮揚に失敗。さらに菅自身が達成不能な無理難題として野党に提案したはずの「退陣条件法案」[5]が、与野党の協力のもとであっさり可決することが決定的となってしまい、外堀を埋められる形で退陣に追い込まれた。8月26日に特例公債法案・再生エネルギー特別措置法案が参議院で可決されたことを受け退陣を正式表明、8月30日に内閣総辞職した。以降は職務執行内閣として在任し、9月2日の野田佳彦内閣発足に伴い首相職を退いた。
在任452日は近年続いた短命政権の中ではある程度長いものの、戦後首相32人中で19位[6]となる短命政権であった。

退任後[編集]

首相退任後は民主党の最高顧問に就任。脱原発を精力的に訴えるも、第46回衆議院議員総選挙にて小選挙区で落選し、比例代表で辛くも復活当選を果たした。

2013年の第23回参議院議員通常選挙において、民主党は現職議員が二人いた東京選挙区の民主党候補者を一人に一本化したが、公認を取り消され無所属として出馬した現職議員を菅氏が全面的に支援したために東京選挙区は民主党の分裂選挙となった(結果は両者とも落選)。この行為により党内に分裂と混乱をもたらしたとされ、党員資格停止3ヶ月のうえ最高顧問を解任する処分が下された。

人物像[編集]

短気な性格から「イラ菅」、変わり身の早さから「バル菅」[7]がある。
首相就任後は支持率の低下とともに、「空き菅」「すっから菅」などと呼ばれたことも。

首相の記者会見などで政策を思いつきで発表することが多く、閣内はもとより社会や国民にまで混乱をもたらした。このやり方は、小泉純一郎元首相に強烈なライバル意識を持っていた菅がその手法を真似たもののようだが、発案や命令をするものの実行のための根回しをしなかったり責任を取らなかったりしたため、結果として次々と味方を失ってしまった。
さらに、第178回国会(臨時国会)閉幕後に四国八十八ヵ所巡りを再開したため、「被災者が震災や原発事故で苦しんでいるのに、あまりにも無責任すぎる」と各所から大批判を浴びた。

こういったことからネット上や一部のメディアからは「歴代史上最低最悪の首相」と批判されている。

久米田康治との関連[編集]

かってに改蔵 作品内にて[編集]

第182話にて、世界乾燥会議に出席する乾直人として登場。その後第199話でかいわれ大根を食べるパフォーマンスがネタにされていた。第283話第285話第287話では年金未納やそれによる党代表辞任についてネタにしている。

2011年4月27日発売の週刊少年マガジンに掲載された特別番外編では、時事ネタとして「思いつき」がネタにされている。

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

157話にポスターとして登場している。
首相就任直後の227話で「新首相就任」として似顔絵が描かれ、240話で厚生大臣時代のカイワレネタが登場し、254話で在任期間が1年持つかどうかがネタにされたが、ネタの宝庫であった歴代首相と比較してネタにされることは少なかった。

しかし内閣不信任案否決以降の政権へのしがみつきや思いつき政策などの醜態が久米田先生的にツボだったらしく、265話267話では「思いつき」がネタにされた。
また、退陣表明後も続投に固執したことが266話の短冊や千里の発言でネタにされ、退陣要求といえるネタが269話270話で相次いだ。
退陣以降も、辞めると言ってからの長さ(275話)、お遍路再開 (282話)、原発事故時の「原子力に詳しい」発言(291話)など、ネタとして定期的に登場している。

296話では、政治家となる前の60年代後半に左翼組織を立ち上げ学生運動に関わっていたことがネタにされた。

WEBラジオ「さよなら絶望放送」放送内にて[編集]

第172回のお別れの一言にて、仮免発言がネタにされた。
第184回のOPドラマでは、東日本大震災を受けて菅内閣閣僚の作業服姿がネタにされた。
第200回では小泉元総理が雑談の中で 「菅、どうした」とギャグをいうネタがあった。

じょしらく 作品内にて[編集]

二十四日目で、退陣表明後も政権の座に固執する姿がネタにされている。

  1. 1977年参院選に社会市民連合、1979年衆院選に社会民主連合の公認候補として立候補した。
  2. 厚生大臣就任に伴い、国民年金の資格が喪失したため。後に厚生労働省が行政上のミスであることを認め謝罪している。
  3. 経済財政政策、科学技術政策担当特命大臣と国務大臣(税制関連の国家戦略担当)の兼務
  4. 内閣法9条に基づく役職。現行法では内閣官房長官が臨時代理順位の第1位となるが、それ以外の大臣を指名して第1位とするときに「副総理」と呼ばれる。正式な官職名ではないが、肩書きの一つとして用いられる。
  5. 第2次補正予算・特例公債法案・再生エネルギー特別措置法案の3法案が退陣条件とされた。
  6. 後に野田佳彦の在職期間が482日間となり、戦後首相33人中20位となった。
  7. 「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、第一次世界大戦の原因となったバルカン半島が由来。