赤塚不二夫

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赤塚不二夫(あかつか ふじお)[編集]

~本名 ~生年月日 ~没年月日 ~出身地 ~職業
CENTER:赤塚 藤雄&Br;あかつか ふじお 1935年9月14日 2008年8月2日 満州国熱河省灤平県[1] 漫画家


日本の漫画家。
代表作は『天才バカボン』『おそ松くん』 『ひみつのアッコちゃん』など。

略歴・人物像[編集]

デビュー以前[編集]

1935年満州国熱河省生まれ。父親は特務機関員として対ソ連諜報活動に従事していた。満州にいた頃は父親から漫画を読むことを禁じられていたという。
父親は終戦直前ソビエト連邦へ連行され、裁判にかけられることとなった。当時10歳の赤塚少年は残された家族とともに日本に引き揚げている。引き揚げ後は一家が生活苦の状態にあり、同級生が『のらくろ』や『冒険ダン吉』の話をしていてもついていけなかった。漫画との出会いは貸本屋で借りた手塚治虫先生の『ロストワールド』に出会ったこと。すぐに漫画家になることを決意、漫画の執筆に没頭することとなった

漫画化デビュー・トキワ荘時代[編集]

18歳の時に上京し、東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら投稿活動を続けていたところ石森章太郎[2]先生の目に留まり、プロ漫画家として活動することとなる。その後、石森先生を手伝う形で鈴木伸一氏や藤子不二雄先生らのいた豊島区のトキワ荘に移り住む。当時の赤塚先生は石森先生のアシスタントや横山光輝先生の出張アシスタントをすることで収入を得ていた。
この頃、漫画雑誌の週刊化という潮流から週刊連載に耐えうる漫画家不足が深刻化したため、とりわけ作家不足に悩む少女マンガ誌を中心に石森、水野英子両先生と合作で少女漫画を描いていた。この経験がのちに『ひみつのアッコちゃん』で開花することとなる。


ギャグまんがの王様[編集]

1958年に石森先生の推薦で秋田書店『まんが王』の穴埋めのために描いたギャグ漫画「ナマちゃん」がスマッシュヒット。1962年には小学館週刊少年サンデー」にて『おそ松くん』、集英社「りぼん」にて『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始し、一躍人気作家となる。1967年には講談社「週刊少年マガジン」にて『天才バカボン』を連載。天才ギャグ作家としての地位を不動のものにした。この間も黒柳徹子と共にテレビ番組の司会を担当したり、「全日本満足問題研究会」を立ち上げライブコンサートを行うなど荒唐無稽ともいえるほど活動に没頭し、時代の寵児となった。この間、ジャズ業界で「伝説の九州の男・森田」として業界で広く知られるようになっていたタモリを上京させ、経済的なサポートをするのみならず芸能界へと転進させている。


本業の漫画は1964年に『おそ松くん』で小学館漫画賞を受賞。1963年にはトキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加し、『おそ松くん』をスタジオ・ゼロ製作によりアニメ化させている。この後も、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。なお、1975年頃には実験的に山田一郎というペンネームを使うも数ヶ月で元に戻している。

晩年から死後[編集]

1980年代になると、多忙を極める中で酒量が増え、アルコール依存症に陥ってしまう。以後は入退院を繰り返すも依存症から回復せず、1998年に食道がんが見つかってからも酒は手放さなかったという。
2000年頃から何度か脳出血を繰り返すようになる。2000年4月には硬膜下血腫で手術を受けたが、入院中にテレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈[3]された。
しかし2002年に脳内出血で倒れてしまい、2004年頃からは意識不明のまま植物状態にあったという。闘病生活は6年に達したが、2008年にこの世を去る。72歳没。


赤塚先生の葬儀に際して、タモリは本名の森田一義として「私もあなたの数多くの作品の一つです。」という内容の弔辞を約8分にわたり読み上げたが、実はタモリが手にしていた紙は全くの「白紙」であった。タモリは自身の最高の芸を披露することで、恩師に感謝の意を表明したことになる。

人物伝の映画化[編集]

2011年4月30日に、赤塚先生の生涯を描いた映画『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』が浅野忠信主演で公開された。
当時編集者として活動していた武居俊樹氏のエッセイ『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』を原作にした映画化で、武居氏のキャスティングはなぜか女性の掘北真希[4]が務めている。

久米田康治との関連[編集]

久米田康治との関係[編集]

「このマンガがすごい SIDE-B」のインタビューにて、自身が選ぶ「このマンガがすごい」として赤塚先生作の『天才バカボン』を挙げており、赤塚先生をギャグマンガの巨匠として非常に尊敬しているようだ。このインタビューによると、『かってに改蔵』に登場する天才塾は『天才バカボン』においてバカボンのパパが卒業した「バカ田大学」の個性的な卒業生たちが同窓生であるバカボンのパパを訪ねてその個性を発揮するという話がモデルとのこと。

さよなら絶望先生 作品中にて[編集]

背景や羅列ネタで稀にネタにされる。

・ハガキ「改名しました 山田一郎」(37話 P96

赤塚不二夫のペンネーム(略歴参照)からという解釈がある。  

・張り紙「クリーンクリーンクリーン 宿直室」(48話 P107

『天才バカボン』に登場する「レレレのおじさん」が発する言葉。  

・張り紙「バカ* 20名」(56話 P82

『天才バカボン』のバカ田大学。バカボンのパパの出身校。  

・新聞「田中田フチオ 大誤報 B.パパの本名説 バカボンパパ本名否定」(69話 P122
・「私もあなたの数多くの作品の一つです」(番外編『楽天大賞』

赤塚不二夫先生の葬儀の際のタモリの弔辞。

かってに改蔵 作品中にて[編集]

上述のとおり、天才塾の設定は『天才バカボン』がモデルとなっている。
また、第288話『最後の戦い』には「紅塚フチ夫」作の『秀才バカボン』なる漫画が登場し、勝改蔵を襲撃しに来た秀才塾の学生を落胆させている。

  1. 現在の中華人民共和国北京市密雲縣付近にあたる。
  2. 後の石ノ森章太郎
  3. なお、赤塚先生は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、印税を辞退している。
  4. 武田初美の役名で登場。