タモリ

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タモリ[編集]

~本名 ~生年月日 ~出身地 ~職業
CENTER:森田 一義&Br;もりた かずよし 1945年8月22日 福岡県福岡市南区 テレビタレント、司会者
ラジオパーソナリティ


略歴[編集]

幼少期~デビューまで[編集]

戦中戦後の混乱期にあり複雑な家族関係の家に生まれる。両親については、父は南満州鉄道の機関士であったという。母親は、幼少の頃に両親が離婚してしまったために、母親の実感や記憶がないという。このような生い立ちから、幼少時代にはすでに大人びており、その馬鹿馬鹿しさ故に幼稚園への入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日自宅の前で人間観察を行っていたという。
トレードマークともいえるサングラスに関しては、小学3年生の時に顔面を損傷する事故で右目を失明したために使用しているもの。得意としている料理も、この頃祖母に習ったものだという。
福岡市立高宮中学校~福岡県立筑紫丘高等学校を卒業。高校時代には持ち前の器用さを発揮し、吹奏楽部でトランペット兼司会を担当しながらアマチュア無線クラブで活動、さらに居合道場にも通っていた(腕前は二段とのこと)。なお、無線との縁から、中国や韓国のラジオ放送を聴くことができ、これが後に「インチキ外国語芸」へとつながった。

1965年に早稲田大学第二文学部へ入学。在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏するなど音楽活動に傾倒していた。その後は地元の福岡県で保険外交員や喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職を転々としていたが、偶然にも「インチキ外国語芸」がきっかけでジャズピアニスト・山下洋輔と知り合い、ジャズ業界で「伝説の九州の男・森田」として業界で広く知られるようになる。1975年6月に再上京、ここで開催された独演会で赤塚不二夫先生に高く評価されたことをきっかけに、30歳で芸能界へと転進することとなる。
独演会直後には赤塚先生が出演するNETテレビ(現・テレビ朝日)『赤塚不二夫の世界』の生放送にそのまま連れて行かれ、インチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせられてしまう。しかし放送直後に黒柳徹子から熱烈なオファーを受け、人生2度目のテレビ出演が『徹子の部屋』となり、そのまま芸能界へと進出した。

人気司会者[編集]

1976年10月から1983年9月までニッポン放送系列の人気深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』に出演、また日本テレビ系深夜番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』『今夜は最高!』などでテレビにも進出し、その人気を不動のものとする。しかし毒のあるキャラクターや発言から度々物議を醸しており、内輪向けの「深夜番組だけの男」と評する向きもあった。これについてタモリは「こう見えて、オレは根が暗いから」など根暗という言葉で反論し、「戦後最大の素人芸人」を自称していた。
一方で、タモリの持つインテリジェンスが司会者・永六輔に評価され、NHKには不向きといわれていたが、NHK総合テレビ『テレビファソラシド』や『ウォッチング』にも起用された。

1982年10月からは『森田一義アワー 笑っていいとも!』の司会者として、ついに昼間の時間帯にも進出[1]。番組が始まると、テレビ番組司会者としての対応能力の高さやゲストとのフリートークの上手さが改めて評価されるようになり、日本の「お昼の顔」として長年に亘り親しまれている[2]。以降も、人気司会者としての地位を不動のものとしており、上記『笑っていいとも!』の他にも『タモリ倶楽部』『ミュージックステーション』『世にも奇妙な物語』など、20年以上続く長寿番組を抱えている。
日本の芸能界では、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』の1人として認められている。

なお、『タモリ論』を書いた作家の樋口毅宏(1971年生まれ)はタモリならではの飄々とした芸風に内在するニヒリズムを見出し「絶望大王」として賞賛している。

恩師・赤塚不二夫の死[編集]

2008年8月2日に、漫画家・赤塚不二夫先生が逝去した。
タモリのコメディアンとしての才能を見抜き、福岡から上京させて自宅マンションに居候までさせていた赤塚先生の葬儀に際して、タモリは「私もあなたの数多くの作品の一つです。」という内容の弔辞を、約8分にわたり読み上げた。タモリは、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で弔文を読んでいたように見えたが、実はその紙は全くの「白紙」であった。タモリは、自身の最高の芸を披露することで、恩師に感謝の意を表明したことになる[3]

人物像[編集]

多趣味[編集]

司会業ばかりが注目されがちだが、タモリの知識は幅広く多彩である。
その片鱗は、『タモリ倶楽部』などで垣間見ることができ、知識領域は、哲学・文学・歴史・地理・地名など人文系、写真・建物・建築・絵画・骨董・書道などの芸術、俳句・落語・能・歌舞伎など伝統文化や音楽、政治・経済から鉄道・船舶など理学工学的な分野、生物学、果てはエロティシズムまで幅広く網羅している。
こうしたタモリの知性を活用して、2008年からNHK総合テレビにて紀行・バラエティ番組『ブラタモリ』が開始された。タモリの趣味である街歩きを題材として、江戸時代・明治時代などの古地図を手に毎回実際に都内各地を練り歩く“探検散歩型番組”であるが、タモリのセンスの高さとNHKが長年培ってきた取材力とが調和した大人気番組となっている。ここでは、かつてイグアナのものまねなどで一斉を風靡し、気持ち悪い男として抱かれたくない男No.1に選ばれ続けた人間とは思えない、全面的に"みんなに好かれる芸人"になっている。

カツラ疑惑[編集]

デビュー当時のタモリは整髪料で固めた頭の真ん中分けであったが、その後『笑っていいとも!』に出演し始めた頃からはディップで固めた七三分けで出演していた。
しかし1990年代になってから髪型をオールバックに変更したときにそれまでのヘアスタイルからは想像できないほどのあきらかなボリューム感が出ていたことから、これ以降、週刊誌などのメディアや好事家のあいだではたびたびカツラ疑惑が指摘されるようになった。髪形の変更についてタモリは、1990年の夏に自身の所有するプレジャーボートに乗り込もうとした際に誤って岸壁から転落し頭部に裂傷を負ったため、この傷跡を目立たなくするための髪形変更であったことを語っていた。しかしタモリは、周りが作り出したカツラ疑惑の噂を逆に利用して、自分がさもかつらを被っているかのようにカツラの話題に動揺して見せたり、自身の髪の毛の出来栄えを自慢したり、強風に対して過剰に防御的姿勢をとるなど、幾度も話のネタとして利用していた。なお、タモリの事務所には頭髪の悩みを抱える視聴者から現在でも「カツラを制作している職人を紹介して欲しい」と懇願する電話が掛かってくるという。


2014年2月25日放映のフジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』にて、一時期、後頭部の毛の薄いところを塗っていたことがあると告白した。実際のところはメイク担当スタイリストが気を利かせて黒色の粉末を筆で塗っていたもので、タモリはやめてというのもおかしいからされるがままにしていたという。

久米田康治との関連[編集]

久米田作品では平日昼間のけだるい雰囲気の象徴として、テレビ画面に『笑っていいとも!』が映っているシーンがよく登場する。

さよなら絶望先生作品内にて[編集]

154話では常月まといの立ち位置に対して、糸色望が「あなた すっかり世にも奇妙のタモリの立ち位置ですね」と表現している。これについては小節あびるも「またタモリの立ち位置」と指摘した(192話)。
また、72話では、糸色望の憶測として「木津千里の理想の男性は真ん中分け[4]のタモリではないか?」と触れられている。
単行本第二一集の付録マンガでは、『ブラタモリ』のパロディとして「ブラコモリ」が登場した。

そのほかでは、28話ではタモリが還暦を迎えたことに関連して、看板ネタとして「森田商店」が登場した。8話には、タモリが司会を務める深夜番組『タモリ倶楽部』が、46話には、タモリ司会のテレビ番組『ジャポニカロゴス』が、57話には、タモリ主演、赤塚不二夫脚本の映画『下落合焼きとりムービー』ネタが、62話97話では『タモリのボキャブラ天国』ネタが、それぞれ登場した。133話には「ガチガチのアニメソングはMステランキングの対象外」では、タモリの似顔絵も登場した[5]213話では、その博識ぶりから「奥行きのある男ベスト3」の一人に数えられた。

番外編『楽天大賞』では、赤塚不二夫先生の葬儀の際のタモリの弔辞「私もあなたの数多くの作品の一つです」が取り上げられた。

かってに改蔵 作品内にて[編集]

勝改蔵が「ボクもホントはいいともの客ぐらい、なんでもかんでも納得したいのです。」(第104話)、 「肌のつやでタモリの体調がわかる。」(第188話)などと取り上げていた。

行け!!南国アイスホッケー部 作品内にて[編集]

カツラ疑惑がたびたび取り上げられていた。

せっかち伯爵と時間どろぼう作品内にて[編集]

  1. 80年代初頭の漫才ブームを受けて、その出世頭だったビートたけしにオファーが来ていたが、たけしが「自分の芸風は昼番組には向かない」「帯番組だと他の仕事を入れにくくなる」などの理由で断ったため、タモリの起用に至った。
  2. タモリ自身は、当初は短命な番組になるだろうと予測していたという。
  3. のち、徳光和夫に弔辞のことを聞かれた時には「もう忘れました」と流したという。
  4. 80年代は髪をポマードで真ん中分けにしていた。
  5. あらゆる分野に通じるタモリであるが、漫画やアニメ、特撮、ゲームなど主に団塊世代二世世代以降の児童文化から発展したオタク系サブカルチャーの部類は世代的に合っていないためか、ほとんど食いつかない傾向にある。