中村紀洋

提供: 久米田康治ワールド Wikiサイト
2021年10月22日 (金) 08:25時点における219.118.243.214 (トーク)による版
ナビゲーションに移動 検索に移動


中村紀洋(なかむら のりひろ)

~生年月日 ~出身地 ~職業
1973年7月24日 大阪府 プロ野球選手、野球指導者


内野手(主に三塁手)。右投右打。

来歴・人物

プロ入りまで

府立渋谷高校時代、2年生でありながらも4番打者として活躍し、チームを甲子園初出場に導いた。ちなみに高校時代の本塁打数は35本。

プロ入り・近鉄時代

1991年にドラフト4位で近鉄バファローズに入団。プロ初安打となるホームランを河野博文(日本ハムファイターズ)から放つ。
1995年には中日ドラゴンズにFA移籍した金村義明のポジションであるレギュラー三塁手の座に着き、大活躍。その後豪快なフルスイングでホームラン王に輝くなどチームの人気選手、4番打者として活躍する。

近鉄消滅・米メジャー挑戦

2001年には12年ぶりのリーグ優勝に貢献。しかし2004年、近鉄はオリックス・ブルーウエーブ(当時)に吸収合併されてしまい、2005年に米メジャーリーグに挑戦するも、アメリカではメジャーリーグで活躍できずマイナー暮らしが続いた。

帰国後・オリックス時代

2006年日本に帰国し、合併球団となったオリックス・バファローズに復帰。ところが怪我で活躍できず、加えて彼特有の人一倍強いカネへの執着心や、ファンやメディアへはおろか上司や先輩らにまでとるオレ様主義の傲岸不遜な態度がこれまで以上に悪化し人気も急落、契約更改でも怪我の扱いや減俸の割合を巡って、オリックスと喧嘩別れのような戦力外通告(=クビ)を受ける。[1]
一応、現役を引退するにはまだまだ早い実力の持ち主だったが、トラブルメーカーとしての悪評が業界中に行きわったったことで、一時は全球団から示し合わせたように「ウチには必要ない」「雇うつもりはない」と言われ続け、その有様は正に『ノラ野球選手』そのものだった。

中日に移籍

2007年2月25日に中日ドラゴンズのセレクションに合格し、2軍戦のみ出場できる『育成選手』制度のルールのスキをついて育成枠で獲得。『10年以上の経験がある選手の何を今更育成するのか』として中日球団共々批判を浴びる。結果として年俸2億5000万から400万円という大幅な減俸となった(比率にして98.4%の給料ダウン)。
入団後まもなく開幕一軍を勝ち取り、中日の三塁手として出場を続ける。これまでの経緯が相当堪えたのか、以前の彼とは見違えるほど謙虚で真面目な性格になり、チームプレーを心がけ、重要な4、5番を任されるような好成績を収め、最終的に日本シリーズではMVPに輝くなど、その姿はもはや完全復活を通り越し、別人へ生まれ変わったかのようであった。
その余りにも凄まじい変貌ぶりには、ネットなどでドラえもんでの改心したジャイアンを評した「きれいなジャイアン」をもじって「きれいなノリさん」などと呼ばれた。

楽天にFA移籍

ところが2008年オフ、中日が翌年から三塁手に若手を起用する方針をとったため取得したFA権を行使。長打力と同時に、ゴールデングラブ賞7回受賞の高い守備力を買われ、2009年に東北楽天ゴールデンイーグルスに円満移籍した。
しかし不振や持病の腰痛で思うような活躍ができず、野村克也監督(当時)いわく「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」とボヤくほど期待を裏切ってしまう。2010年オフに戦力外通告を受ける。

横浜と契約

2011年5月23日、横浜ベイスターズ[2]が獲得することを発表した。
しかし、横浜には正三塁手で主軸の村田修一選手が在籍しているので、起用法に疑問が持たれていた。
一軍登録後は、左投手が先発予想される試合で一塁手としてスタメン出場し、左打ちのブレッド・ハーパー選手との併用で、主に代打や守備固めで起用された。
2012年からは、村田のFA移籍とハーパーの退団によりスタメンでの起用が増え、打撃の主軸として活躍、全球団からの本塁打を達成。
2013年には日米通算と日本通算双方での2000本安打と、通算400本塁打を記録した。
2014年は開幕二軍だったものの主砲であったトニ・ブランコの故障もあり一軍昇格、打撃の主軸として活躍するも、5月頭に長年抑えていた悪癖の問題行動[3]を起こした為、懲罰として登録抹消。以後昇格することなく10月に戦力外通告を受け退団。


現役続行を希望していたが、どこの球団からもオファーが無く、再び『ノラ野球選手』状態となった。


退団後

2015年時点では生涯現役を宣言していたが、2016年には学生野球資格回復適性認定を受けて高校/大学選手への指導資格を取得し、指導者として野球教室に積極的に参加、自身も野球教室「N’s Method」のプロデュースと運営に携わり、小・中学生や女子ソフトボール選手に打撃を指導するなど、野球指導者への転身を進めている。

2017年4月、元プロ野球選手の佐野心が監督を勤める浜松開誠館高校野球部のコーチに就任。

2022年から、中日ドラゴンズの一軍打撃コーチに就任予定。

久米田康治との関連

さよなら絶望先生作品内

上記戦力外ネタや、海苔と彼の愛称「ノリ」を掛け合わせたネタなどで登場。
また単行本第七集では、巻末の「膿トレ」コーナーで案内役(?)のCGとしても登場。昔の彼らしい大口を叩いている。
アニメでは、「【俗・】さよなら絶望先生」の第4話Aパートで、藤吉晴美がバッテングセンターでホームランを打ったときに、中日のユニホーム姿で声をかけている。 その後の13話Aパートには、無所属のノラ野球選手として登場した。


  1. オリックス球団側にも選手規約を無視した上、どこの戦力編成も整った後での解雇という苛烈な処遇に非難はあった。
  2. 2012年より球団名は「横浜DeNAベイスターズ」。
  3. コーチに「自分の打席の時には走者を動かさないで欲しい」と頼んだことが采配批判と取られた。2012年にも同様のことをチームメイトに言ったことで一軍登録抹消などの懲罰を受けていた。