宮沢賢治

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宮沢賢治(みやざわ けんじ)[編集]

日本の詩人・童話作家・農業研究家。岩手県出身。

近代日本を代表する作家の一人であり、今風に表現すると『生涯童貞+実妹萌え+同人作家』とカテゴライズできる、偉大な人物である。

経歴[編集]

1896年8月27日に裕福な質店の長男として誕生。
少年期から童話や植物、鉱物などに親しみ、中学生から短歌を詠む。

盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に進学後は石川啄木に影響を受けて創作に励む傍ら、地質調査研究に勤しむ傍ら、同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。
卒業後、研究生を経て助教授推薦を辞退。東京で創作に専念するが、1921年夏に妹トシ入院の報を聞き岩手に帰る。花巻農学校(現花巻農業高等学校)教師となるが同年11月にトシが病死。
1924年に心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。同年12月、イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
1926年に教職を辞し、羅須地人協会を設立。以降、農業指導と農民芸術活動を創めるが1928年に急性肺炎に倒れる。
1931年に東北砕石工場技師となり宣伝販売を担当するが東京で病に倒れ、帰郷して創作に専念。同年11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。

1933年9月21日に急性肺炎で死亡。享年37歳。生涯独身であった。
地元で貧しさに耐える農民に対し裕福に暮らす実家への反発、生家が熱心な仏教徒[1]であったことから培われた献身的精神と、唯一の理解者であった妹の存在とその死は賢治の人格と文学性に大きな影響を成しており、教え子たちや地元の人々のために尽力する生き様を終生貫徹した[2]
また、郷土岩手の地を深く愛し、作中に登場する架空の地名、理想郷を「イーハトーヴ」と名づけた。

生前から文通で交流し、作品発表に協力していた詩人の草野心平(1903~1988)の尽力で、賢治の作品は埋もれることなく死の翌年から刊行が始まった。それらには、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』などがある。
後年にも遺稿が多数発見されているが、賢治の作品は生前に加筆修正中の未定稿が殆どであったため、作品群の編纂は戦後まで続けられた。

作風[編集]

既成概念に囚われない幻想的で純朴な世界観と自由闊達な描写力、自然への深遠な敬意と博愛的理想[3]を呈示する作風は現在も多くの人々の心を魅了している。作家は副業であったため作品発表は多くはなく収入も微々たるものだったが、同時代の詩人・佐藤惣之助や中原中也からは注目されていた[4]
また、理系出身で明治期からの文士の流れであった漢文や古典からは距離を置いていた学問的背景を持つ賢治の文体は独自の個性と創造性に富んでおり、さらに生前には音楽や演劇を好み、『星めぐりの歌』など8曲の歌も遺している。こうした音楽的感性と言語感覚は文学にも影響を及ぼしており、諸作品の描写に用いられた多種多様なオノマトペ(擬音)も後進の作家たちに大きな影響を与えている。
特に言語のみならず音響を視覚化しなければならない漫画においてはオノマトペの充実は必須でもあり、賢治による擬態語の追求と表現は時を越えて漫画にも多大な貢献をしたと言えるだろう。

日本における電子音楽の大家で作曲家の冨田勲(1932~2016)は賢治の文学作品を題材にした『イーハトーブ交響曲』を製作しており、歌唱は初音ミクが起用されている。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生作品内にて[編集]

久米田先生は、彼の作品のタイトルや作中の一節からサブタイトルをよくつけている。

  1. 父は浄土真宗を信仰していたが、賢治は学生時代に法華経信仰に転向し、父とは対立した。賢治の死後に宮沢家は日蓮宗に改宗している。
  2. 一方で生前は教員の給与の殆どをレコードや書籍の収集などに奔放に使っていたため、賢治自身の懐はいつも苦しかった。そのため羅須地人協会の設立資金は父に頼っている。
  3. 生前にはエスペラント語も学んでおり、人類愛的な観点を得ようとしていた傾向も見られる。
  4. 特に中原中也は賢治との面識は無かったが、裕福な医師の家に生まれ、成績優秀でありながらも弟の死を境に文学に目覚め、実家との対立も振り切りながら詩作に生きた生涯であり、賢治との類似点もある境遇の詩人だった。