落合博満

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落合博満(おちあい ひろみつ)[編集]

~生年月日 ~出身地 ~職業
1953年12月9日 CENTER:秋田県南秋田郡若美町
(現・男鹿市)
CENTER:元プロ野球選手
プロ野球監督
解説者

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

秋田工業高時代は野球部に所属していたが、趣味である映画鑑賞に没頭する時間が長く殆ど練習はしなかったため、入退部を7回繰り返す。しかし当時の部員たちは落合の実力を認めていたため復帰する理由はこのためであった。
卒業後は東洋大学に進学も体育会系の路線に馴染めず半年で中退。帰郷しボウリング選手を目指すも、プロテスト受験時に交通違反で罰金を取られてしまい受験料を払えず挫折。その後高校時代の恩師のすすめで東芝府中野球部に入部。ここでアマチュア選手の一角をあらわした。

プロ野球選手として[編集]

1978年、ドラフト3位でロッテオリオンズに入団。土肥健二らベテラン選手たちの見よう見真似を研究し、「オレ流」なる独学で「神主打法」のバッティングフォームを会得。1982年に史上最年少の三冠王獲得。その後2度の三冠王(1985年~1986年と2年連続)に輝いた。ロッテ在籍時に信子夫人と結婚している。
しかし年俸などがネックとなり、1987年に牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂との4対1のトレードで中日ドラゴンズに移籍。中日在籍1年目で長男・福嗣(ふくし)が誕生し、日本球界初の1億円プレイヤーになった。1990年には本塁打と打点の二冠に輝くもこのオフに日本人選手初の調停を申請した。


1993年シーズンオフにフリーエージェント(FA)制度が開始されると、ベテラン選手が権利行使しないと若手にとっても使いづらい制度となるとの信念からFA権を行使、移籍交渉の末読売ジャイアンツに移籍した。1994年には4番打者を任され長島茂雄監督初の日本一に貢献。1995年に2000本安打達成も名球会入りを拒否。これは会長の金田正一に対する批判と考えられ、落合のバッティングを酷評した金田に対する当て付けでもあった。


巨人との3年契約が満了した1996年シーズンオフに、巨人側は西武ライオンズからFA移籍した清原和博を獲得する方針により落合との契約を延長しない方針を採ったことから、ヤクルトスワローズと日本ハムファイターズによる「落合獲得競争」が起きた。落合は優勝できる球団であることを視野に入れており、野村克也監督の熱心な誘いもあってヤクルト移籍が優勢であったが、ヤクルト側は1年契約であったのに対して日本ハム側が2年契約を提示し巻き返し、1997年には日本ハムファイターズに移籍した。しかしながら1997年には、誘いを蹴った方のヤクルトが日本一を達成し[1]、優勝できる球団を希望していた落合にとってある意味皮肉な結果となってしまった。結局、肉体からくる衰えは隠せず、チームを優勝に導くことなく1998年[2]に引退している。
プロ通算成績は、実労20年で通算2371安打、510本塁打、1564打点、通算打率.311という好成績であるが、自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけ」と語っている。その並ぶ者無き実績と独自の個性から、日本プロ野球の歴史を代表する名選手のひとりである。

監督として[編集]

2004年に中日監督就任。就任1年目には、補強の凍結を宣言し「個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げたことから、オレ流采配として注目を集めた。選手を適材適所に配置しシステムを重視する采配を行っている。一例として、2007年にはなにかとトラブルが多かった問題選手の中村紀洋を獲得し、以前の彼とは見違えるほど謙虚で真面目な性格に再教育し、最終的に日本シリーズMVPに輝くほどの活躍の場を与えている。
しかし、選手時代から「オレ流」と評された個性的な采配には批判も多い。コーチ人事においても、球団生え抜きのOBの中には、他球団にて実績のあるコーチ陣を登用する落合を毛嫌いするものが多かったとされている。2009年に開催されたワールドベースボールクラシックでは中日だけが自軍の選手を派遣させなかった[3]ことから批判を受けている。また2007年の日本シリーズ第五戦では、シリーズ初の完全試合の機会であったがあえて投手交代をしたことが賛否両論[4]を巻き起こしたりと、よい意味でも悪い意味でも話題性が尽きない名物監督である。2011年に競技者表彰のプレーヤー部門として野球殿堂入りを果たした。


2011年シーズンは攻撃陣の絶不調によりチーム大苦戦、8月には5位にまで転落しており首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がついていた。このときに反落合派として知られた球団社長は、落合憎さのあまり自チームの敗戦を見てガッツポーズしていたという話題が報道されたころから、チームは一転して投手陣の働きにより勝ち星を重ねていった。球団から落合監督の退任が発表されるといった通常なら指揮面の悪影響を受そうな場面を逆にバネにして、ついに逆転優勝を決めた。同年の日本シリーズでは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したものの、大逆転を演出した采配や世間の判官びいきもあって、落合は名監督としてさらに名声を高めることとなった。


2011年をもって中日の監督を退任、2011年のシーズン終了までにリーグ優勝4回(2004年,2006年,2010年,2011年)、クライマックスシリーズ優勝3回(2007年,2010年,2011年)、日本一1回(2007年)。通算成績は629勝491敗、監督8年間ですべてAクラスという好成績を残している。


なお、球団内の反落合派は、上述のような落合の采配をファンサービス軽視であり観客動員数の伸び悩みの原因であるとたびたび非難していた。このため落合の後任監督には、集客力のある人気OBという理由で高木守道[5]が就任した。しかし高木は1年目こそ2位の成績を残したものの、コーチや選手とのトラブルが絶えずチーム成績も下降、さらに観客動員も激減してしまったため、わずか2年で退任となってしまった。
一連の経緯によって、かえって落合の監督としての評価をさらに高める結果となったのは皮肉としかいいようがない。

チーム再建へ、中日GMに就任[編集]

2013年オフ、高木がチーム低迷の責任を取って辞任。落合はチーム再建の切り札として球団オーナーから請われる形で2014年シーズンから中日のゼネラルマネージャー(GM)に就任。監督に関しては、現役捕手である谷繁元信を監督業兼任のプレイングマネージャーとする人事を発表、ここでも落合流を発揮した。

GM退任[編集]

しかし、GM就任後はチームの成績は上向かずBクラスの常連となり批判が集中。2017年1月に契約切れにより退任した。以後は、主に解説者、タレントとして活動している。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生 作品内にて[編集]

初登場の88話では、まだ現役選手だったころに自身を賞賛する記念館を設置したことがネタにされている。以降、長男の福嗣(ふくし)ネタ(138話)、上述の名球会入会拒否ネタ(152話)などが随所に登場している。


2008年後半あたりからは、落合本人と長男が機動戦士ガンダムに傾倒しているネタも取り上げられるようになっており、 155話では「落合記念館の展示物が ふくし君が作ったガンプラばかりになってしまった」とネタにされたほか、157話では落合監督自身もガンダムオタクを自称し全シリーズ視聴していることがネタにされている。しかし久米田先生らしく同じコマで中日投手陣の崩壊についてもチクリと批判している。

かってに改蔵 作品内にて[編集]

第84話にて、空気が読めずに恐ろしい事態になった例として落合記念館がネタにされた。

  1. この年の日本ハムは4位であった。
  2. この年はシーズン中盤まで首位に立つも、終盤で西武ライオンズに逆転優勝を許してしまった。
  3. WBCの時に落合は出場を希望する選手の意思を尊重し、実際に出場を希望する選手もいたが、中日からは誰も選ばれなかったと語っている(2012年1月15日『落合博満トーク&ディナー』⇒★>http)。
  4. ファンのことを全く省みない監督であるため人気がない監督と評する者もいるが、この采配に関しては優勝が掛かった場面であり、絶対的守護神を登板させることに中日ファンはおおむね好意的であったようだ。
  5. 西沢道夫に続く2代目ミスタードラゴンズ。俊足巧打かつ名二塁手であり、三拍子揃った選手だった。