酒井法子

提供: 久米田康治ワールド Wikiサイト
ナビゲーションに移動 検索に移動


酒井法子(さかい のりこ)[編集]

~本名 ~生年月日 ~出身地 ~職業
CENTER:酒井 法子&Br;さかい のりこ 1971年2月14日 福岡県福岡市 アイドル歌手→女優

人物・略歴[編集]

デビュー以前[編集]

福岡県福岡市生まれ、埼玉県狭山市育ち。小学校6年生の3学期に再び福岡に引っ越す。


1985年、オーディション「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」(資生堂主催)に応募するも落選、直後にサンミュージックの専務の目に留まったことから同年12月、福岡市から上京。所属事務所・サンミュージックの社長である相澤秀禎氏の自宅にて下宿生活を始め、デビューまでを過ごすことになる。

アイドル歌手としてデビュー[編集]

1986年1月、日本テレビ系ドラマ『春風一番!』で女優としてデビュー、ほぼ同時に雑誌『Momoco』の「モモコクラブ」のメンバー(桃組出席番号1482番)となる。
1980年代当時のアイドルは、歌の上手い下手にかかわらず歌手としてレコードデビューしていたが、酒井もその例に漏れずアイドル歌手として売り出される。1987年、『男のコになりたい』で歌手デビュー。底抜けに元気な女の子というスタイルで、若者を中心に人気を獲得。3枚目のシングル『ノ・レ・な・いTeen-age』で第18回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞を受賞。3枚目のシングル『夢冒険』はNHKで放映された『アニメ三銃士』の主題歌に使用され、翌1988年春のセンバツ高校野球の入場行進曲にも選出された。

のりピー[編集]

キャッチフレーズは「おきゃんなレディ」。デビュー当時のニックネームは中学生時代のニックネーム「のりっぺ」であったが、デビューしてしばらく経ってから「のりピー」と名乗るようになる。同時に「ヤッピー」「いただきマンモス」「うれピー」といった「のりピー語」を使用、流行語となった。
なお、所属事務所・サンミュージック社長の相澤秀禎は「のりピー語」は酒井を売り出すための戦略であったことを自著で明かしている。


芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家としても活動し、“さかいのりこ”名義で少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に連載を持ったこともある。中学生の頃に自ら生み出したというキャラクター「のりピーちゃん」は、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われていた。また、そのキャラクターグッズも自身のショップ『NORI-P HOUSE』で販売されて人気を博していた。当時は芸能人が自らのグッズなどを販売する「タレントショップ」がブームであったが、その筆頭ともいえる存在であった。

女優として[編集]

1990年代に入り日本全体がアイドル冬の時代を迎えると、酒井は活躍の場を東アジアへと移していく。当時のことを酒井は「のりピー語は20歳を越えた頃から似つかわしくないと思うようになった」と回想している。
台湾、香港、中華人民共和国など東アジアでは、折からの日本ブームの波にも乗り、日本における活躍以上の絶大な人気を誇るようになる。この時期、中国語歌唱による楽曲も発表している。1992年5月10-11日に行われた自身初の海外公演である台北市立総合体育場でのコンサートは、台湾における日本人初のワンマンショーとなった。


1993年頃から日本国内で本格的な女優としての活動が始まる。フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下』、日本テレビ系ドラマ『星の金貨』、TBSテレビ系ドラマ『聖者の行進』など、出演したテレビドラマが次々大ヒット。ドラマ『星の金貨』の主題歌であった『碧いうさぎ』がミリオンセラーとなる。1995年にはデビュー9年目にしてNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。

結婚・出産と復帰以降[編集]

90年代中期以降、趣味としてボディボードなどのマリンスポーツを楽しむようになった。
1998年に、とんねるずの木梨憲武の紹介で知り合ったスキーショップJIRO経営者の御曹司でプロサーファーの高相祐一とできちゃった結婚。翌1999年には長男を出産している。2000年に産休から復帰以降は、子育てと女優活動を両立しながら2003年にはファッションブランド『PP rikorino』を立ち上げるなど、マルチに活動していた。

逃亡劇の末に覚せい剤取締法違反で逮捕[編集]

2009年8月4日未明、東京渋谷の繁華街でかねてから内偵中であった夫・高相祐一が覚せい剤取締法違反で逮捕される。
夫が逮捕されたという報道とほぼ同時に、酒井が行方不明となったため事務所側が捜索願を出する旨が発表された。当初は、酒井は夫が逮捕されたことに気が動転して長男とともに失踪したと被害者を演じようとしていたが、次第に夫が逮捕されたときに酒井も一緒にいたことや任意の取調べを拒否して逃亡していた事実などが明らかとなる。
そして家宅捜索の結果、覚醒剤を所持・使用していたことが確実となり、逮捕状が請求され事実上の指名手配となった。酒井は一週間の逃亡の末出頭、覚せい剤取締法違反で逮捕(所持容疑、後に使用容疑で追送検)された。さらにこの逃亡も、検査での薬物反応を消すための工作だったと供述している。


この事件の前後に、酒井法子がモデルとなった「ダメ。ゼッタイ。」ポスターのコラージュ写真がネットで出回った。このコラージュ写真が大々的にクローズアップされてしまったために、「ダメ。ゼッタイ。」のHP(麻薬・覚せい剤乱用防止センター)にて注意が出される結果となっている。(⇒★>http) なお、酒井はポスターのモデルにはなっていないものの、1993年に千葉県市川市で開催された「麻薬・覚せい剤乱用防止センター」のイベントに参加していたことがある。同センターは「乱用防止の趣旨をご理解いただけていなかったことは残念でならない。憤りを感じる。」とコメントしている。


また、夫の高相祐一については連日自称・プロサーファーと報道されていたが、これは日本プロサーフィン連盟・JPSAが「高相容疑者は過去に一度もJPSAに登録したことはない」と発表したためである。しかし1999年にはショートボードの選手としてJPSAに登録(⇒★>http のタ行3段目)されており、正確には元・プロサーファーというのが正しい…と訂正したところで覚せい剤使用の事実は消えないのだが、とんだお騒がせとなった。
酒井は2009年8月28日に起訴、同時に所属事務所であるサンミュージックを解雇された。


有罪判決後[編集]

酒井の初公判は2009年10月26日に東京地裁で行なわれ、起訴事実を認めた。検察側は懲役1年6か月を求刑し即日結審。なお公判で酒井は「夫と離婚して覚せい剤を断ち切りたい」「芸能界を引退し、介護の仕事をやりたい」と語っている。同年11月9日に判決公判が開かれ、懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決が言い渡され、 検察側・弁護側双方とも控訴せず刑が確定している。


その後11月10日に、群馬県にある創造学園大学ソーシャルワーク学科を受験、合格していたことが大学側の発表により明らかとなった。今後は通信教育により介護職の資格を獲得する方針で、同大学に2010年1月に入学した。


2010年6月には高相との離婚が成立(調停離婚)し、12月には自叙伝『贖罪』を発表しVTR出演ながら事件以来初めてテレビに姿を見せた。


2012年に入ると週刊誌やワイドショーなどで、執行猶予期間が満了する2012年11月以降に女優として芸能界復帰をするのではないかと憶測が流れた。9月には12月に行われる時代劇の舞台への出演で女優活動を再開させるという報道がなされ、9月27日に舞台への出演が正式発表され芸能界復帰が決定した。所属事務所はオフィスニグンニイバ。

久米田康治との関連[編集]

さよなら絶望先生 作品内において[編集]

麻薬・覚せい剤乱用防止センターの薬物乱用防止イベントにて使用されるキャッチフレーズ「ダメ。ゼッタイ。」が、192話に登場。
以降、同時期に逮捕された押尾学とともに、”「酒」「塩」の看板がある店”としても隠喩的に登場しているほか、義務として登場している。さよなら絶望先生の世界観では、いまだ逃亡中のようだ。


事件を起こす以前にも、49話でのりピー語がネタにされていた。

アニメ版さよなら絶望先生 作品内において[編集]

上記の逃亡劇のときに放映されていたアニメ第三期懺・第07話では黒板ネタとして「逃走将軍」が、また翌週の懺・第08話でも貼り紙ネタ(マンモスうれピー)や雑誌記事に紛れ込ませる形(前日逮捕された**ラビット容疑者も常用!)などでネタにされている。