夏目漱石
夏目漱石(なつめ そうせき)[編集]
本名 | 生年月日 | 没年月日 | 出身地 | 職業 |
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夏目金之助 なつめ きんのすけ |
1867年2月9日 | 1916年12月9日 | 江戸牛込馬場下横町 (現:東京都新宿区喜久井町[1]) |
作家・評論家・俳人・英文学者 |
代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』『三四郎』など。
千円紙幣D号券の肖像としても有名。
経歴[編集]
徳川幕府が大政奉還する直前の1867年2月に名主の子として生まれたが、生家の没落などの問題があり幼少期に書生の男のもとに養子に出されるなど家庭の混乱が多い環境で育ち、転校が多かった。それでも16歳の時に神田駿河台の英語塾・成立学舎に進学し文学を志す。この頃から学業優秀で知られ、東京帝国大学英文科に進学。後に親友となる正岡子規と知り合い、文学的に大きな影響を受ける(漱石[2]のペンネームも子規から譲り受けている)。
卒業後は英語教師となり、その学識を文部省から評価されて英国にも留学するが、学問の悩みや兄たちの死去、自身の肺結核、妻との不和などで精神的に落ち込んで不安定な状態に陥り、英国留学を中断して帰国[3]。籍を置いていた第五高等学校(現在の熊本大学)教授職からも退いた。
その後旧制一高(現在の東京大学教養学部)と東京帝大、明治大の教職に就くが、授業の不評、教え子だった藤村操が華厳の滝へ投身自殺、妻との別居などで精神的に深く落ち込む。
そうしたうつ状態を和らげるため、子規の友人である高浜虚子から小説執筆を進められ、1904年に処女作『吾輩は猫である』を発表。
これが好評となり、1907年からは教職を全て辞して朝日新聞社に入社し、職業作家の道へ進む。
1910年、胃潰瘍を患い入院。以降も度々胃潰瘍やノイローゼの再発に悩まされる。
1916年5月、『明暗』の連載開始。同年12月、執筆中に胃潰瘍の悪化で大内出血を起こし逝去、絶筆となる。
弟子も多数おり、作家では芥川龍之介や内田百閒、久米正雄らを輩出しており、学者では寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などがいる。
作風[編集]
処女作『我輩は猫である』の頃から完成度は高く、のびのびとしつつどこか滑稽な人物やのどかな日常の描写などは現代漫画のセンスにも通じるものがあり、当時は「余裕派」とも評され自然主義文学に反する位置付けに見られていたが、そうした中にも主人公に「太平は死ななければ得られぬ」と悟らせるなど、不条理への現実的認識や冷徹な諦観が散見された。
青春小説の『坊っちゃん』での主人公の乳母・清との唐突な別れ、救いがありそうで無い『草枕』、恋人を計算高く二股にかけるもその意思を見誤る悪女の愚かさを描いた『虞美人草』、社会と他者と自我との折り合いがつかぬまま多くを失っていく『それから』、男性の愛と死を通じて自我の危うさと人間関係の酷薄さを後味悪目に描いた『こゝろ』など、仄かに絶望感を匂わせる作品が少なくない。
ゆえに現代の視点では読後感があまり良くないと評されることもあるが、それは漱石の生きた時代、身分制度の支配する封建社会が崩れた後に到来した新時代の価値観の中で自我の在り方を模索した精神の彷徨でもあった。身分に代わる自己確立の根拠の希薄さに辟易しつつも、対立や欲望を原点に生じる「個人の意思」の正体を見極め、それをいかに尊重すべきか或いは否かの迷いが自身の苦悩でもあり、創作の根幹でもあった。
また、俳句や漢詩に造詣が深い一方で一般大衆を読者にした小説を書く手前、より簡潔でニュアンスの伝わりやすい言葉を考案する必要があるとの考えから独自の言葉遊びや当て字を活かした造語も多数創り出しており、「非道い」「沢山」「月並み」「兎に角」など、現代でも用いられているものも多く、日本語の大衆的変化と普及にもさりげなく貢献している。
久米田康治との関連[編集]
久米田先生は、彼の作品のタイトルや冒頭部分からサブタイトルをよくつけている。
さよなら絶望先生にて[編集]
- 25話『吾輩は天下りである 仕事はまだない』
- 29話『親譲りの無気力で、子供のときから冬眠ばかりしている』
- 35話『私はその人を常に残りものと呼んでいた』
- 70話『原型の盾』
- 73話『七五三四郎』
- 91話『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は3すくみ。』
- 121話『渡しの個人主義』
- 第三集『没っちゃん』
せっかち伯爵と時間どろぼうにて[編集]
- 00'36"/我輩は伯爵である
この話の中で漱石の迷言がネタにされている。